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アクバル : ウィキペディア日本語版
アクバル

アクバル , Jalāl'ud-Dīn Muhammad Akbar)は、北インドムガル帝国の第3代君主(在位:1556年 - 1605年)。アクバル1世、アクバル大帝( , Akbar-e kabīr)とも呼ばれる
アラビア語で「偉大」を意味するアクバルの名にふさわしく、中央アジアからの流入者であった祖父バーブルの立てたムガル朝を真に帝国と呼ばれるにふさわしい国家に発展させた。そのため、マウリヤ朝アショーカ王に並び称されることもあり〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p185〕、大帝の称号を与えられている。
アクバルは、先述のアショーカ王やスール朝シェール・シャーとともに最も成功した君主であり、インドの最も偉大な王であり融和の象徴として、現在のインドでも人気が高い。


'' , Jalāl'ud-Dīn Muhammad Akbar)は、北インドムガル帝国の第3代君主(在位:1556年 - 1605年)。アクバル1世アクバル大帝( , Akbar-e kabīr)とも呼ばれる
アラビア語で「偉大」を意味するアクバルの名にふさわしく、中央アジアからの流入者であった祖父バーブルの立てたムガル朝を真に帝国と呼ばれるにふさわしい国家に発展させた。そのため、マウリヤ朝アショーカ王に並び称されることもあり〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p185〕、大帝の称号を与えられている。
アクバルは、先述のアショーカ王やスール朝シェール・シャーとともに最も成功した君主であり、インドの最も偉大な王であり融和の象徴として、現在のインドでも人気が高い。


== 生涯 ==

=== 出生から立太子まで===

1542年10月15日、 アクバルは西インドシンド地方ウマルコートウマルコート城で、ムガル帝国の第2代君主フマーユーンとその妃ハミーダ・バーヌー・ベーグムとの間に生まれた〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.184〕〔クロー『ムガル帝国の興亡』、p.165〕〔近藤『近年のムガル帝国論について』、p.31〕〔Delhi 4 〕。誕生名はバドルッディーン・ムハンマド・アクバル(Badruddin:満月の意、満月の夜に誕生したため。アクバルの名は外祖父のシャイフ・アクバル・アリー・ジャーミーにちなむ)〔クロー『ムガル帝国の興亡』、p.65〕。
さて、皇子アクバルの幼少期は前途多難であった。アクバルは父フマーユーンパシュトゥーン人(アフガン人)でスール朝の創始者シェール・シャー北インドの帝位を追われて流浪している時に誕生した。また、フマーユーンは帝国を再統一するため、弟カームラーンアスカリーヒンダールと争わねばならず、イランを支配していたサファヴィー朝の庇護を受けることにした。
1543年11月、フマーユーンはサファヴィー朝に亡命するためイスファハーンに向かい、アクバルはカンダハールを統治していた叔父アスカリーのもとに人質に出された〔近藤『近年のムガル帝国論について』、p.31〕。
1544年から1545年の冬、アクバルはカンダハールのアスカリーのもとからカーブルを統治していた叔父カームラーンのもとに移された〔近藤『近年のムガル帝国論について』、p.31〕。
その後、1545年11月15日、フマーユーンがアスカリーを打倒してカーブルに入城すると、アクバルは父と再会した〔近藤『近年のムガル帝国論について』、p.31〕。だが、翌1546年11月にフマーユーンがカーブルを追放されると、アクバルはふたたびカームラーンの人質となった〔近藤『近年のムガル帝国論について』、p.31〕。なお、フマーユーンによるカーブル奪還が行われているさなか、同年10月8日にカームラーンの命令によりカーブル城の城壁に晒し出され、包囲軍の砲撃に会う危機に陥った〔近藤『近年のムガル帝国論について』、p.31〕〔近藤『近年のムガル帝国論について』、p.32〕。
このとき、アクバルの姿を見た砲兵隊指揮官のとっさの判断により砲撃が中止され、アクバルは難を免れた〔近藤『近年のムガル帝国論について』、p.32〕。
1547年4月27日、アクバルは父カームラーンがカーブルから逃げたのち、父フマーユーンと合流した〔近藤『近年のムガル帝国論について』、p.31〕。また、その年の11月にアクバルは初めて家庭教師の指導を受けた〔近藤『近年のムガル帝国論について』、p.31〕。
だが、1550年前半にカームラーンがカーブルに帰還してくると、アクバルはまたしてもその人質になった〔近藤『近年のムガル帝国論について』、p.31〕。同年後半、フマーユーンがカーブルを奪還し、アクバルは再び父と合流した〔近藤『近年のムガル帝国論について』、p.31〕。
1551年、アクバルは父フマーユーンによりガズニー知事に任命され、翌1555年7月に父がデリーを奪還すると、11月にパンジャーブ太守となった〔近藤『近年のムガル帝国論について』、p.31〕。なお、この間6月に後継者に指名され、スール朝との戦いで戦功のあったバイラム・ハーンが後見人となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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