翻訳と辞書
Words near each other
・ ウィリアム・ラトクリフ
・ ウィリアム・ラドクリフ・バート
・ ウィリアム・ラドフォード
・ ウィリアム・ラボフ
・ ウィリアム・ラム
・ ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)
・ ウィリアム・ラムゼー
・ ウィリアム・ラン
・ ウィリアム・ランキン
・ ウィリアム・ランダル・クリーマー
ウィリアム・ランドルフ・ハースト
・ ウィリアム・ラヴロック
・ ウィリアム・ラーニッド
・ ウィリアム・ラーニッド・マーシー
・ ウィリアム・ラーネッド
・ ウィリアム・ラーネッド・マーシー
・ ウィリアム・ラーンド
・ ウィリアム・ラーンド・マーシー
・ ウィリアム・リグレー・ジュニア・カンパニー
・ ウィリアム・リチャーズ・キャッスル


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ウィリアム・ランドルフ・ハースト : ミニ英和和英辞書
ウィリアム・ランドルフ・ハースト[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ウィリアム・ランドルフ・ハースト : ウィキペディア日本語版
ウィリアム・ランドルフ・ハースト[ちょうおん]

ウィリアム・ランドルフ・ハースト(, 1863年4月29日 - 1951年8月14日)は、カリフォルニア州サンフランシスコ生まれのアメリカの新聞発行人。アメリカの メディア・コングロマリットハースト・コーポレーションの創業者。映画『市民ケーン』のモデルとしても有名。
== 生涯 ==
父ジョージはゴールドラッシュ時代に銀鉱山を当て、富豪となった炭坑のオーナー。のちに、カリフォルニア州の上院議員になった。母フィービーはミズーリ州の学校の教師。10歳の時に母親とヨーロッパ中を旅行し見聞を広める。ハーストは16歳でニューハンプシャー州コンコードにあるセント・ポール高校に入学。
ハーバード大学に入学するも(1882 - 1885)、学位を取らずに退学。その後1887年、父親が賭博の担保として入手した「サンフランシスコ・エグザミナー」を譲り受ける。彼は同紙を「ザ・モナーク・オブ・ザ・デイリーズ」に改名、最良の設備と才能ある作家を得ることに。その後、ハーストは汚職の暴露と、インスピレーションで満たされた物語を数多く発表している。
1895年にはニューヨーク・モーニング・ジャーナル紙を買収し、ジョーゼフ・ピューリツァー(ニューヨーク・ワールド紙の所有者)との発行競争が勃発。購読者数を増加させるために両紙は、キューバの暴動に関する記事を多く掲載していくことになる。両紙の記事は、真実を伝えるものよりも市民感情を煽るショッキングなものが多かった。例えば、スペイン軍がキューバ人を強制収容所に入れ、彼らが疾病と飢えで苦しみ死んだなどという捏造記事やでっち上げ記事で民意をコントロールし、スペインとの戦争(米西戦争)までを引き起こしている。イエロー・ジャーナリズム(ジャーナル中のコマ漫画“イエロー・キッド”の名前に由来する)の用語は扇情的に扱われた新聞記事のスタイルに使用された。
多くの人々が、ハーストは、自身の新聞の売り上げを伸ばすために1898年米西戦争を誇大に報じたことを知っている。彼の政治経歴は、大統領ウィリアム・マッキンレー暗殺に絡んで、事件の数か月前に出版したアンブローズ・ビアスによる風刺詩がマッキンレー暗殺をほのめかしているとの指摘を受け、痛手を受けたことも。
1903年ニューヨークで22歳の美しいショーガール、ミリセント・ヴェロニカ・ウィルソン(1882 - 1974)と結婚。出会いは彼女がまだ16歳の時。20歳近く年齢が離れていたが、彼らは5人の息子をもうけている。ジョージ・ランドルフ(1904 - 1972)、ウィリアム・ランドルフ・ジュニア(1908 - 1993)、ジョン・ランドルフ(1910 - 1958)、および双子のランドルフ・アパーソン(1915 - 2000)およびデービッド・ウィットマイアー(1915 - 1986)。結婚生活はハーストの死まで続いている(1926年に別居)。
アメリカ合衆国下院議員(1903年 - 1907年)、ニューヨーク市長(1905年1909年)と政治家としての道を歩むが、ニューヨーク州知事(1906年)選挙に出馬するものの、チャールズ・エヴァンス・ヒューズに敗北。この間、第一次世界大戦へのアメリカ関与に反対し、国際連盟を攻撃したこともある。
彼の新聞の全国チェーンとニュースを配信する通信社の国際ニュースサービス社(INS;後にやはり新聞チェーン系のUPと合併。組織、資本内容が変更されてUPIとなる)を加えて、定期刊行物は「シカゴ・エグザミナー」「ボストン・アメリカン」「コスモポリタン」「ハーパース・バザー」を含むようになった。
1920年代にはカリフォルニア州サン・シメオンの240,000エーカー(970 km2)の農場に動物園付きの絢爛豪華でやや悪趣味な城を建造(通称ハースト・キャッスル)。このころ、元女優のマリオン・デイヴィス(本名マリオン・セシリア・ダグラス、1897 - 1961)と知り合い、妻と別居して、マリオンと暮らし始める。初めてハーストと出会ったころのマリオンは、まだ10代半ばのショーガールだったが、50代のハーストはひと目でマリオンの容姿と性格を気に入り、直ちに彼女のパトロンに納まった。そして愛人であるマリオンのために、わざわざ映画制作会社(コスモポリタン社)まで設立。強引に彼女を映画女優に仕立て上げデビューさせただけでなく、自分が発行する新聞社の記事で彼女を大々的に宣伝した。しかし、その露骨なまでに愛人をプッシュする売り出し手法は大衆をおおいにしらけさせる結果となった。また、彼女自身、美人というだけであまり女優としての才能もなく、女優業よりも夜通しパーティで遊びまわることに夢中だったことも手伝い、莫大な資金をかけた割りには映画界の評価は芳しくなかった。当然、ハースト傘下以外の新聞・雑誌での評価は低く、結局大スターにはなれず、晩年はハーストの経営する新聞社の経営難により、芸能活動をすることが困難になり1937年に引退。
ピーク時には彼はいくつかのラジオ放送局および映画会社に加えて、28の主な新聞および18の雑誌を所有。しかしながら、世界恐慌は彼の財務状態を弱めた。1940年頃になると彼は巨大なコミュニケーション帝国のコントロールを失っている。1951年、カリフォルニア州ビバリーヒルズにて死去。彼が築きあげたハースト・コーポレーションは、巨大メディア・コングロマリットとして現在でもニューヨークに本拠を構え事業は続いている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ウィリアム・ランドルフ・ハースト」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.