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イーゼンブルク伯領 : ミニ英和和英辞書
イーゼンブルク伯領[いーぜんぶるくはくりょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ブル : [ぶる]
 【名詞】 1. bull 2. (n) bull
: [はく]
 【名詞】 1. count 2. earl 3. eldest brother 4. uncle 5. chief official 

イーゼンブルク伯領 : ウィキペディア日本語版
イーゼンブルク伯領[いーぜんぶるくはくりょう]

イーゼンブルク伯領Grafschaft Isenburg)は、神聖ローマ帝国の帝国伯領の1つ。イーゼンブルク家Haus Isenburg)が領主として治めた。同家はイーゼンブルク城(Isenburg、現在のラインラント=プファルツ州ノイヴィート郡)を名字の地とする。18世紀には、伯爵領は現在のヘッセン州カッセル行政管区およびダルムシュタット行政管区に広がっていた。19世紀以降は陪臣化され、シュタンデスヘル家門となった。
== 歴史 ==
イーゼンブルク家の先祖は、ライン渓谷中流上部およびヴェスターヴァルト地方(Westerwald)に住む自由騎士Edelfrei)であった。史料で裏付けられる同家の最初の居館は、ロマースドルフ(Rommersdorf、現在のノイヴィート市ハインバッハ=ヴァイス(Heimbach-Weis))にあった。1100年頃、同家はザイン川(Sayn)河畔とイザーバッハ(Iserbach)の所領を入手してイーゼンブルク城を建築、これらをイーゼンブルク騎士領(''Herren von Isenburg'')と称した〔http://www.bendorf-geschichte.de/bdf-0080.
htm „Zur Geschichte von Isenburg“ bei bendorf-geschichte.de〕。当主たちは12世紀末までに、結婚を通じてアルンシュタイン伯領(Grafen von Arnstein)やコーベルンKobern-Gondorf)を相続した。
イーゼンブルク家では12世紀より家系の分裂が始まった。1210年には、すでに4つないし5つの系統に分裂していた。新しい分家が創設されたびに、所領は細かく分割された。同じく、新しい分家が出来るたびに新しい城も建築された。
*1179年 - 1210年 ブラウンスベルク城(Burg Braunsberg)、アンハウゼンAnhausen)郊外
*1194年 コーベルン城(Niederburg Kobern)、モーゼル川河畔
*1213年 グレンツァウ城(Burg Grenzau)、ヘール=グレンツハウゼンHöhr-Grenzhausen)郊外
*1258年/1259年 アーレンフェルス城(Schloss Arenfels)、バート・ヘニンゲンBad Hönningen)郊外〔
イーゼンブルク家は最初期の分裂に際し、大きく分けてブラウンスベルク系、リンブルク系、ケンペニヒ系の3つに分裂した。ケンペニヒ系は最も早い1424年に断絶した。現在も続くイーゼンブルク家諸家は、リンブルク系の流れを汲んでいる。
ブラウンスベルク系は13世紀にヴィート伯領Grafschaft Wied))の半分を相続し、14世紀には伯領の残り半分も獲得して新しいヴィート伯家を創設し、この伯家は15世紀半ばまで続いた。ブラウンスベルク系は1664年、イーゼンブルク=グレンツァウ伯爵家の断絶により男系が途絶え、その遺領はヴァルダードルフ家(Walderdorff)とヴィート=ノイヴィート家の共同管理地域(Kondominium)とされた。
リンブルク系の諸系統の中で15世紀末まで続いていたのは、ビューディンゲンBüdingen)を本拠とする家系のみとなっていた。この家系も1511年にはロンネブルク城(Burg Ronneburg)城主系統とビルシュタイン城(Schloss Birstein)の城主系統に分かれた。前者は1601年に断絶し、後者は1628年から1631年にかけてビューデンゲン系統とオッフェンバッハ系統に分かれた。
1744年、嫡長子系のイーゼンブルク=ビルシュタイン伯ヴォルフガング・エルンストは神聖ローマ皇帝カール7世より帝国諸侯(フュルスト)に列せられた。
1806年、イーゼンブルク=ビルシュタイン侯領は他系統のイーゼンブルク諸家領を併合し、ライン連邦に参加した。イーゼンブルク侯領は1815年のライン連邦の崩壊とともにオーストリア帝国に占領された。翌1816年には改めて、イーゼンブルク侯領の大部分はヘッセン大公国に、わずかな部分はヘッセン選帝侯国に併合された。ヘッセン家の統治者はこのとき以後、「イーゼンブルク侯("Fürst zu Isenburg")」の称号をその統治者称号に加えた〔Köbler, Gerhard: "Historisches Lexikon der Deutschen Länder", S. 312 〕。ヘッセン大公国では、イーゼンブルク諸家の旧領はビューディンゲン郡(Landratsbezirk Büdingen)という単一の行政単位にまとめられた。
イーゼンブルク=ビューディンゲン家は1840年に、イーゼンブルク=ヴェヒタースバッハ家は1865年にそれぞれヘッセン大公家より侯(フュルスト)の称号を授けられた。イーゼンブルク=ビューディンゲン家は侯位を授けられた際、家名の中の「イーゼンブルク」の綴りを「Isenburg」から「Ysenburg」に変更している。なお、1936年にイーゼンブルク=ヴェヒタースバッハ家の家長が子供のいないイーゼンブルク=ビューディンゲン家の家長と養子縁組し、その継嗣となったことにより、両家は実質的に一本化されている。
また、イーゼンブルク=ビルシュタイン侯爵家は1913年、家名を「(Fürst) zu Isenburg ''und Büdingen''」から「(Fürst) von Isenburg」に変更し、単にイーゼンブルク侯爵家とだけ名乗っている。イーゼンブルク家諸家で現存する系統は、ビューディンゲン系とヴェヒタースバッハ系(実質的には一本化)、ビルシュタイン系の3系統のみとなる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「イーゼンブルク伯領」の詳細全文を読む




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