翻訳と辞書
Words near each other
・ イヴァン・サエンコ
・ イヴァン・サモラノ
・ イヴァン・サモラーノ
・ イヴァン・サンタロミタ
・ イヴァン・サンタロミータ
・ イヴァン・シルヴァ
・ イヴァン・シーシキン
・ イヴァン・ジェナティー
・ イヴァン・ジェルジンスキー
・ イヴァン・ステファノヴィッチ
イヴァン・ステファン
・ イヴァン・ステヴァノヴィッチ
・ イヴァン・ストラツィミル
・ イヴァン・スミルノフ
・ イヴァン・スラツィミル
・ イヴァン・セチェノフ
・ イヴァン・タラノフ
・ イヴァン・ツァレヴィチ
・ イヴァン・ツァンカル
・ イヴァン・ツルゲーネフ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

イヴァン・ステファン : ミニ英和和英辞書
イヴァン・ステファン[てふ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

テフ : [てふ]
 (n) TeX, (n) TeX

イヴァン・ステファン : ウィキペディア日本語版
イヴァン・ステファン[てふ]
イヴァン・ステファン(、1300年もしくは1301年 - 1373年?)は、第二次ブルガリア帝国皇帝ツァール、在位1330年 - 1331年)。ブルガリア皇帝ミハイル3世シシュマンの子。母のアンナ・ネダ(:en:Ana-Neda)はセルビアステファン・ウロシュ2世ミルティンの娘にあたり〔Andreev, p. 266〕、母方からはアセン家、テルテル家の血筋を受け継いでいた。そのため、イヴァン・ステファンは第二次ブルガリア帝国で皇帝を輩出したアセン家、テルテル家、シシュマン家全ての家系に属する。
1330年の夏、イヴァン・ステファンは叔父ステファン・ウロシュ3世デチャンスキの力を借りてブルガリア皇帝に即位した〔Fine〕。1331年にタルノヴォの貴族によって廃位された後、母と共に叔父ベラウルの領地であるニシュに逃亡し、その後ドゥブロヴニクに移動した。しかし、イヴァン・アレクサンダルからの働きかけを受けたステファン・ウロシュ4世ドゥシャンによってドゥブロヴニクを追放され、ナポリで最期を迎えたと考えられている。
== 生涯 ==

=== 即位前 ===
1323年にミハイル3世が皇帝に即位した後、イヴァン・ステファンはミハイル3世の共同統治者とされた。翌1324年にミハイル3世がビザンツ(東ローマ帝国)皇帝ミカエル9世の娘テオドラ・パレオロギナと結婚するためにアンナを離縁した時、イヴァン・ステファンは母と兄弟とともに修道院に追放される。
1330年7月28日に起きたヴェルブジュドの戦いの後、セルビア軍に捕らえられたミハイル3世シシュマンは敵陣で没した〔Ivanov, pp. 132-134〕。8月2日にブルガリアの大貴族(ボヤール)たちはセルビア王ステファン・ウロシュ3世に和平を申し込んだ〔Burmov, p. 265〕。ウロシュ3世はムラカ(Mraka、bg)という地でボヤールたちに面会し、イヴァン・ステファンをブルガリアの帝位に就ける条件で和平に同意した〔I.ディミトロフ、M.イスーソフ、I.ショポフ『ブルガリア 1』(寺島憲治訳, 世界の教科書=歴史, ほるぷ出版, 1985年8月)、p.104〕。和平の1年後にウロシュ3世はセルビアの貴族によって廃位され、幽閉先のズヴェチャン城で亡くなる。
ムラカでの和平が成立した後、イヴァン・ステファンはアンナとともに首都のタルノヴォに向かった。1300年8月末、タルノヴォに入城したイヴァン・ステファンは貴族たちによって皇帝に擁立された。イヴァン・ステファンは即位時点で既に30代に達していたにもかかわらず、母のアンナと共同統治を行っていたが、その理由については判明していない〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「イヴァン・ステファン」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.