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イケル・カシージャス : ミニ英和和英辞書
イケル・カシージャス[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

イケル・カシージャス : ウィキペディア日本語版
イケル・カシージャス[ちょうおん]

イケル・カシージャス・フェルナンデス(、1981年5月20日 - )は、スペインモストレス出身のサッカー選手プリメイラ・リーガFCポルト所属。スペイン代表。ポジションはゴールキーパー。日本の報道ではカシリャスカシーリャスカシジャスと表記されることもある(ジェイスモを参照)。
レアル・マドリード下部組織出身。1999年にトップチームに昇格すると、その後16シーズンで公式戦725試合に出場して18タイトルを獲得した〔カシージャスの“レアル・マドリードでの16年間”を振り返る .SoccerKing〕。スペイン代表としても150試合以上に出場し、スペイン代表での歴代最多出場選手となっている。リーガ・エスパニョーラコパ・デル・レイスーペルコパなどの国内タイトルのほか、FIFAワールドカップUEFA欧州選手権UEFAチャンピオンズリーグUEFAスーパーカップFIFAクラブワールドカップなどのメジャータイトルを主将として獲得した。
== 来歴 ==

=== クラブ ===
1981年5月20日公務員の父と美容師の母のもとに生まれる〔Iker Casillas, portero del Real Madrid Iker Casillas, Real Madrid's goalkeeper . エル・ムンド〕。子供の頃は内向的な性格で〔インタビュー:レアル・カシージャス レアル・マドリード公式サイト、2011年2月18日〕、当時憧れの選手はデンマーク代表ピーター・シュマイケルであった〔カシージャスが選ぶ歴代GKベスト10 UEFA.com、2010年1月29日〕〔イケル・カシージャス(レアル・マドリー/スペイン代表)「僕はこれからも成長を続ける」 . OCNスポーツ、2011年11月28日〕。1990-91シーズン、9歳の頃にレアル・マドリードの下部組織へ入団〔レアル主将カシージャス、去る時は裏門から――。決別選んだペレス会長、守護神との間に生まれた軋轢 . footballchannel〕。
1997年11月27日、高校在学中(16歳)にUEFAチャンピオンズリーグローゼンボリ戦に招集されたが、トップチームデビューしたのは1999-2000シーズンになってからだった。1998-99シーズンにレアル・マドリードCテルセーラ・ディビシオンを優勝し、翌1999-2000シーズンにはレアル・マドリード・カスティージャのレギュラーになると同時にトップチームの第3GKも務めた〔。ボド・イルクナーアルバノ・ビサーリが負傷離脱したことにより、リーグ第3戦のアスレティック・ビルバオ戦でスターティングメンバーに抜擢。半月後にはビサーリに正GKの座を譲ることになったが、不安定なプレーを見せていたビサーリに代わって1999年12月より再びスターティングメンバーに名を連ねるようになった〔。負傷により長期離脱したイルクナーに代わってポジションを獲得し、歴代最年少の19歳4日でチャンピオンズリーグ決勝(バレンシア戦)に出場した〔Iker Casillas ESPN Soccernet〕。
2000年にはプリメーラ・ディビシオン最優秀新人選手賞であるブラヴォー賞を獲得。同年夏にビサーリとの入れ替わりでセサル・サンチェスレアル・バリャドリードから加入。彼とポジションを争うことになり、2001-02シーズン終盤にはポジションを奪われた。しかし、セサルは同シーズンのチャンピオンズリーグ決勝バイヤー・レバークーゼン戦後半途中に負傷し、交代でピッチに立った〔GK 1 カシージャス レアル・マドリード公式サイト日本語版〕。レバークーゼンの怒涛の攻撃に対してファインセーブを連発し(特に後半ロスタイム、決定的だった相手CKからのディミタール・ベルバトフの至近距離からのシュートをたて続けに防いだ)、2年ぶり9回目の優勝に貢献した。その後も銀河系軍団と呼ばれるチームにあって守備面で大きな貢献をし、チームの顔の1人となった。その後セサルは退団し、レアルマドリードの守護神として定着した。
2007-08シーズンは実りの多いシーズンだった。ディフェンダーにファビオ・カンナヴァーロペペら実力者が加入し、31度目のリーグ優勝を果たすと共に、36試合32失点に抑えてサモラ賞(最少失点率)のタイトルを初めて受賞。シーズン中の2008年2月14日には、2017年までの契約延長で合意に達し、最終シーズンに30試合以上に出場すると自動的に契約が延長されるという、いわゆる「生涯契約」にサインした〔ラウルとカシージャス、生涯R・マドリーでプレー livedoorスポーツ、2008年2月15日〕。他クラブが彼を獲得する際の違約金は1億1300万ユーロに設定された。
2008年には自身2度目のUEFAベストイレブンにも輝いた。彼にバロンドールを求める署名活動が起こり、1万人以上の署名が集まった〔「カシージャスにバロンドールを」に1万人以上が署名 livedoorスポーツ、2008年9月9日〕。結果的に、クリスティアーノ・ロナウドリオネル・メッシフェルナンド・トーレスに次ぐゴールキーパーとして最高位の4位に入った。2008-09シーズンにはリーグ戦全試合に出場した。2008年冬の移籍市場でマンチェスター・シティはカシージャス引き抜きの為に違約金として史上最高額となる約175億円を用意したが、カシージャスはこの申し出を断った〔マン・シティ、カシージャス引き抜きに失敗 livedoorスポーツ、2008年12月3日〕。2009年2月7日ラシン・サンタンデール戦で、フランシスコ・ブーヨが保持していたクラブのゴールキーパー最多出場記録(454試合)を更新した〔Casillas secures a place in Madrid folklore UEFA.com、2009年2月9日〕。
2009年10月4日セビージャFC戦でスーパーセーブを披露し、往年の名GKであるゴードン・バンクスから「史上最高のGKの一人」と評された〔Praise for Casillas レアル・マドリード公式ウェブサイト、2009年10月7日〕。11月25日FCチューリッヒ戦で、11人目となるUEFAチャンピオンズリーグ通算100試合出場を達成した〔カシージャス、CL100試合出場達成 Goal.com、2009年11月26日〕。国際サッカー歴史統計連盟が選ぶ2009年の最優秀ゴールキーパーとなり、歴代のランキングでも2位につけている〔The World's best Goalkeeper 2009 IFFHS〕 〔All-Time World Goalkeeper Ranking (1987-2009) IFFHS〕。
ラウル・ゴンサレスグティの両キャプテンがクラブを去ったことに伴い、2010-11シーズンよりレアル・マドリードの主将に就任した。12月12日レアル・サラゴサ戦でレアル・マドリード史上9人目、GKとしては初のリーグ400試合出場を果たした。2010年にもUEFAチーム・オブ・ザ・イヤーに4年連続で選ばれ、ジャンルイジ・ブッフォンの3度を超えて最多受賞GKとなった。2011年4月9日のビルバオ戦では3-0で完封勝利し、ブーヨの持っていた通算無失点試合数のクラブ記録に並んだ〔カシージャスに新たなる勲章 Goal.com 2011年4月10日〕。コパ・デル・レイ決勝では、ラスト15分の間にメッシやペドロアンドレス・イニエスタらのシュートを3度スーパーセーブで防ぐなどの守りを見せ〔、10年以上のキャリアで1度も手にしたことのなかったコパ・デル・レイのタイトルを獲得した。
2011年には国際サッカー歴史統計連盟から4年連続で最優秀GKに選ばれるとともに、同賞制定25周年を記念して設定された「過去25年で最高のGK」にも選出された。また、21世紀のGKランキングにおいては、ブッフォンに僅差で敗れたものの、3位のペトル・チェフを大きく引き離すポイントを獲得して2位に選ばれた〔The World‘s best Goalkeeper of the 21st Century 、IFFHS〕。
その一方、緊張状態に陥っていたFCバルセロナとの和解のため、シャビカルレス・プジョルら代表でのチームメイトに直接電話をかけ謝罪をしたと報じられたこと(実際はその電話の内容は口論であった)、恋人であるサラ・カルボネーロがクラブ内情を暴露したことなどから、ジョゼ・モウリーニョとの確執が発生。そんな中、2012-13シーズンには2013年1月23日のコパ・デル・レイ準々決勝のバレンシア戦にてアルバロ・アルベロアとの接触により左手を骨折し、長期離脱を余儀なくされる。負傷から復帰した後も、緊急補強されたディエゴ・ロペスが正GKに定着したため、出場機会が得られない状況が続いた。リーグ最終戦であるCAオサスナ戦では、ロペスが負傷していたのにも関わらずカシージャスは招集外となり、ヘスス・フェルナンデスがゴールを守った。
2013年夏にカルロ・アンチェロッティが監督に就任すると、アンチェロッティはロペスとカシージャスのローテーションを明言し、リーグ戦をロペス、チャンピオンズリーグ及びコパ・デル・レイをカシージャスと使い分けた。2013-14シーズンの初試合となったチャンピオンズリーグ、グループリーグガラタサライSK戦でセルヒオ・ラモスとの接触プレーによる途中交代の不運もあったものの、ガラタサライSKとの2戦目でウムト・ブルトにゴールを奪われて以降9試合無失点に抑え、アベル・レシーノの持つスペインのクラブにおける無失点記録924分を28分上回った〔カシージャス、スペインの無失点記録を更新 Goal.com、2014年2月27日〕。チャンピオンズリーグで決勝まで進んだことを受け、アンチェロッティは試合の間隔を開けないためリーガでも2選手を併用し〔レアル、リーガ残り4戦はD・ロペスとカシージャスが2試合ずつプレー yahoo.com、2014年5月4日〕、レアル・バリャドリード戦とRCDエスパニョール戦に出場した。アトレティコ・マドリードとのダービーとなった決勝では、カシージャスのミスからディエゴ・ゴディンに先制点を許したものの、3度目となる欧州制覇を達成した〔同点ゴールを決めたラモス、カシージャスのミスを帳消しに yahoo.com、2014年5月25日〕。
2014年夏の移籍市場にてロペスがACミランへ移籍、入れ替わるようにケイロル・ナバスがレアル・マドリードへ加入。2014-15シーズンのリーガ開幕戦、コルドバCF戦はカシージャスが先発でゴールを守り、その後正GKに返り咲いた。ヨーロッパ王者として出場したFIFAクラブワールドカップ2014ではレアル・マドリードの優勝に貢献した。クラブワールドカップ決勝であるCAサン・ロレンソ戦で、マノーロ・サンチス、ラウルに続いて史上3人目となるレアル・マドリード通算700試合出場を達成した〔カシージャス、クラブW杯決勝でレアル700試合出場を達成 SOCCER KING 2014年12月21日〕。
2015年7月11日、FCポルトへ移籍。表向きは加齢による衰えやシーズンの低パフォーマンスが理由だが、前述の通り、モウリーニョとの確執はその後フロレンティーノ・ペレスアルバロ・アルベロアシャビ・アロンソらとの確執をも生み出し、カシージャスは孤立無援の状態に追い込まれる。翌日に行われた退団会見においても、ペレスをはじめとしたクラブ関係者は姿を見せずカシージャス一人で行われ、事実上追放という形だった〔レアル主将カシージャス、去る時は裏門から――。決別選んだペレス会長、守護神との間に生まれた軋轢 footballchannel、2015年7月14日〕。チームメイトやFCバルセロナの選手、同世代で共に世界最高のGKと評されたブッフォンらからメッセージが届き〔カシージャスに同僚達から別れの言葉…S・ラモス「偉大な主将に感謝」 soccer king、2015年7月13日〕〔ブッフォン、レアル退団のカシージャスにエール「我々GKを代表する1人」 soccer king、2015年7月14日〕、同年FCバルセロナからアル・サッドへ移籍したシャビは、レアル・マドリードのカシージャスに対する扱いを非難した〔シャビがレアルのカシージャスに対する扱いを非難「敬意を欠いた」 soccer king、2015年7月15日〕。ポルトでは背番号12を与えられた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「イケル・カシージャス」の詳細全文を読む




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