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アンナ・マニャーニ : ミニ英和和英辞書
アンナ・マニャーニ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アンナ・マニャーニ : ウィキペディア日本語版
アンナ・マニャーニ[ちょうおん]

アンナ・マニャーニAnna Magnani1908年3月7日 - 1973年9月26日)は、イタリア女優ローマ出身。
== 来歴 ==
父親はエジプト人であると長く紹介されてきたが、実際の父親はカラブリア出身のイタリア人である。母マリーナはアンナを生んだ後、娘を実母に預けてアレクサンドリアへ渡り、裕福なオーストリア人と結婚した。アンナは、祖母の家で祖母と5人の叔母たちから育てられた。第一次世界大戦後にマリーナは帰国してアンナをフランス人修道女が運営する寄宿学校へ入れたが、短期間で終わった。その後アレクサンドリアへ戻った母を追ってアンナもエジプトへ向かうが、母から愛されなかった彼女には苦い思いしか残らなかった。15歳から大衆演芸の舞台に立つ。数多くの作品でウェイトレスや歌手という端役を務めた後、1934年映画デビュー。彫りが深い顔立ち、線の太いいかにも「イタリア女」の風貌で、ロッセリーニルノワールヴィスコンティらの作品に出演した。
第二次世界大戦中、ムッソリーニ失脚後、北イタリアはドイツ軍に占領され、ドイツ軍は占領軍使用のため、市民の自動車を徴発した。
自動車を取られたマニャーニは怒って、農家の使う大八車を持ち出し、ドイツ兵に怒鳴りながら、ヴィア・デル・コルソなどの目抜き通りを突っ走ったという。
1935年、映画監督ゴッフレード・アレッサンドリーニと結婚。1942年、一人息子のルカを生んだ。ルカの父親は、当時アンナが交際していた年下の俳優、マッシモ・セラートで、彼はアンナの妊娠を知ると即座に彼女と別れた。彼女はルカに自らの姓マニャーニを名乗らせた(奇しくも、私生児としてアンナを生んだ実母マリーナが、自らの姓を名乗らせたのと同じであった)。
1955年の『バラの刺青』でアカデミー主演女優賞ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)を受賞。
晩年に『ふたりの女』の出演以来がきたとき、マニャーニは母親役をよしとせず蹴ったところ、代役はソフィア・ローレンになり、ローレンはその演技でアカデミー主演女優賞を獲得。「私の役はみんなソフィアが持っていってしまう。」と、後輩の活躍をうらやんだという。
1973年9月、ローマの病院で、膵臓の腫瘍のため死去。晩年の彼女を支えたのは、一人息子ルカと、(一時期交際していたこともあった)ロベルト・ロッセリーニであった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アンナ・マニャーニ」の詳細全文を読む




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