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アンドレーア・ガブリエーリ : ミニ英和和英辞書
アンドレーア・ガブリエーリ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アンドレーア・ガブリエーリ : ウィキペディア日本語版
アンドレーア・ガブリエーリ[ちょうおん]

アンドレーア・ガブリエーリ(Andrea Gabrieli, 1510年ごろ - 1586年後半)はイタリアルネサンス音楽作曲家オルガニスト。より有名なジョヴァンニのおじである。チプリアーノ・デ・ローレとともに、国際的に有名なヴェネツィア楽派の第一世代に当たり、複合唱の作曲技法をイタリアやドイツに広める上で、多大な影響力をふるった。
==生涯==
ガブリエーリの若い頃について詳しいことは分からない。たぶんヴェネツィア出身で、聖マルコ大寺院の教会楽長アドリアン・ヴィラールトに師事したであろう。1557年に、このころ聖マルコ大寺院のオルガニストの座を争って敗れたために、ヴェネツィア共和国カンナレジオ地区のオルガニストとなったことが分かっている。1562年ドイツに行き、フランクフルト・アム・マインミュンヘンを訪ねる。後者でオルランドゥス・ラッススと親交を結んだ。1566年にようやく聖マルコ大寺院オルガニストに選任され、終生この地位にあった。この職務は、北部イタリアの音楽家にとって最も名誉ある地位の一つであった。この頃には、存命中の最も優れた作曲家の一人として、名声を手に入れるようになる。聖マルコ大寺院の特有な音響空間の中で働いたため、独自の豪放で壮麗な表現様式を発展させ、初期バロック音楽様式を部分的に決定づけることとなった複合唱様式やコンチェルタート様式の発展に、多大な影響を及ぼした。
聖マルコ大寺院におけるガブリエーリの責務の一つに、作曲があったことは明らかである。ガブリエーリは儀式用の音楽をふんだんに作曲したからであり、その中には歴史的に重要な儀式もいくつか含まれている。例えば、レパントの海戦における勝利を祝した機会音楽(1571年)のほか、1586年には天正遣欧少年使節の謁見のために音楽を作曲している。
後半生においては教師としても有名になった。門人のうちで傑出した存在は、甥ジョヴァンニのほか、ドイツの地にコンチェルタート様式を持ち帰ったハンス・レーオ・ハスラーと、音楽理論家のロドヴィーコ・ツァッコーニなどである。
死没の年月日や状況について正確なことは分からないが、1586年の終わりに聖マルコ大寺院で彼が勤めていた地位に後任者が就任していること、1587年になって大量に作品が「死後出版」されていることなどの状況から見て、1586年に他界したと推測される。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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