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アントン・ワルター : ミニ英和和英辞書
アントン・ワルター[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アントン・ワルター : ウィキペディア日本語版
アントン・ワルター[ちょうおん]
アントン・ワルター(ガブリエル・アントン・ワルター、Gabriel Anton Walter)、アントン・ヴァルターとも。 1752年2月5日にドイツのノイハウゼン・アウフ・デン・フィルデンに生まれる。1826年4月11日ウィーンにて没す。1780年にシェフストス(SCHÖFSTOSS)の未亡人と結婚し、ウィーン新聞に記録が載っているため、生年、没年等の確認可能。18世紀末から19世紀初頭に、ウィーンにおいて活躍した鍵盤楽器製作者。グローブ音楽辞典の記載に、18世紀後半における最も知られた楽器製作者とある。
== 生涯 ==
父は大工でオルガン奏者でもある。母方はイタリア系の出身。ウィーンに移住する前の経歴はよく知られていない。1770年代半ばにはウィーンに移住し、鍵盤楽器製作者として活動し始めたと思われる。 最初にワルターが実績を認められたのは、楽器修復者としてであった。1781年にエステルハージ宮殿の鍵盤楽器修復を依頼され、12日間滞在し、24グルデンの報酬を得た記録が残っている。
ウィーンにおける最初期の活動でワルターは正式に同業組合(ギルド)の会員として認められなかったため、初期の鍵盤楽器にはワルター名義の銘板がついていない。ギルド入りを許可されなかった理由は、この時期、ワルターは急進的な反体制運動(ジャコバイト運動)の賛同者とみられたためウィーンでの自由な活動を制限されたからである。1790年代初めにマリア・テレジアや息子のヨーゼフ2世の計らいにより、ギルド加入が認められ、1790年末に「宮廷付きオルガンその他楽器製造業者」の称号を得た。この後、製作された楽器には"ANTON WALTER in WIEN"の銘板が入ることになる。
1796年発行の『ウィーン・プラハ音楽芸術年鑑』に当時のウィーンにおけるピアノ製作者の記事が記載されている。それによると、当時随一の製作者はアントン・ワルターで二番手と目されるのがシャンツ、それに続くのがナネッテ・シュトライヒャーと評価されている。1800年には義理の息子ヨーゼフ・シェフストス(JOSEF SCHÖFSTOSS)が経営に参画し、"ANTON WALTER & SOHN"の商標を使用するようになる。
ワルターのピアノ(フォルテピアノ)はモーツァルトベートーヴェンなどの一流の音楽家に高く評価され、ワルター自身も19世紀初頭には時代の趨勢を担う先進的な製造業者としての名声を得る。にもかかわらず、ワルターのピアノ事業は19世紀後半におけるピアノ製造技術の革新やより大型の音量の大きな楽器を求める時代の流行の変化に取り残され、次第に衰退をたどることとなる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アントン・ワルター」の詳細全文を読む




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