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アル・アットルス : ミニ英和和英辞書
アル・アットルス
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


アル・アットルス : ウィキペディア日本語版
アル・アットルス

アル・アットルスAl Attles, 1936年11月7日 - )はアメリカ合衆国の元バスケットボール選手、指導者。ニュージャージー州ニューアーク出身。選手、コーチとしてフィラデルフィア時代からのゴールデンステート・ウォリアーズを23年間に渡って支え、1975年にはコーチとしてウォリアーズを優勝に導いた。背番号『16』はウォリアーズの永久欠番となっている。
1960年のNBAドラフトフィラデルフィア・ウォリアーズに指名されたアットルスは、当時は全体39位という低い評価での入団だった。しかしロールプレイヤーながらウィルト・チェンバレンポール・アリジントム・メシェリーネイト・サーモンドリック・バリージェフ・マリンズと主力選手が次々と入れ替わる中、アットルスは選手として11シーズンの間ウォリアーズでプレイした。
サンフランシスコに拠点を移した1963-64シーズンにはプレーオフを勝ち抜いてNBAファイナルに進出したが、ウォリアーズにとっての仇敵ボストン・セルティックスに敗れた。チェンバレンがチームを去り、サーモンド、バリーらがチームの中心選手となった1966-67シーズンにも再びファイナルに進出するが、今度はチェンバレン率いるフィラデルフィア・76ersに敗れ、優勝には届かなかった。
1969-70シーズンからは選手兼任のままウォリアーズのヘッドコーチに就任。その後コーチに専念するため、1970-71シーズンを最後に現役から引退した。NBA通算成績は
11シーズン711試合の出場で、6,328得点2,483アシスト、平均8.9得点3.5アシストだった。
1967年のファイナル進出以来成績が下降気味だったウォリアーズは、アットルスのヘッドコーチ就任により成績が持ち直し、プレーオフ常連チームとして毎年安定した勝率を残してはいたが、ファイナル進出からは遠ざかっていた。そして1974-75シーズン前にはサーモンドを放出。大黒柱の放出にこのシーズンのウォリアーズは苦戦必至と思われたが、予想外の健闘でプレーオフではファイナルに進出。ワシントン・ブレッツとのファイナルは、アットルスとK.C.ジョーンズと、アメリカプロスポーツ史上初となる黒人ヘッドコーチ同士の対決となった。ウォリアーズは4戦全勝で降して優勝を果たし、アットルスはビル・ラッセルに次いで史上2番目の優勝チームの黒人ヘッドコーチとなった。
アットルスはその後も1982-83シーズンまで采配を振り続けるが、コーチキャリアの後半は不振のシーズンが続き、最後の6シーズンはプレーオフ進出することができなかった。
コーチ通算成績は14シーズン1,075試合、557勝518敗、勝率.518。プレーオフ進出は6回、優勝は1回。
==外部リンク==

* Basketball-Reference.com (as player)
* Basketball-Reference.com (as coach)







抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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