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ウィルト・チェンバレン : ウィキペディア日本語版
ウィルト・チェンバレン

ウィルト・チェンバレン(Wilt Chamberlain、フルネーム:ウィルトン・ノーマン・チェンバレン、Wilton Norman Chamberlain、1936年8月21日 - 1999年10月12日)は、ペンシルベニア州フィラデルフィア出身のバスケットボール選手。NBAにおける伝説的な選手として知られ、身長216cm、体重125kg(NBAデビュー時は113kg)と当時としては破格の体格と並外れた身体能力を武器に1960年代から1970年代にかけてリーグトップクラスの選手として君臨した。
こと得点、リバウンドの分野では史上類を見ない才能を発揮しており、今なお、そして今後も破られないであろう数多くのNBA記録を保持する。得点王には7回、リバウンド王には11回、センターとしては極めて稀なアシスト王にも1回、シーズンMVP4回、ファイナルMVP1回に輝き、1979年には殿堂入りを果たし、NBA50周年記念オールタイムチームにも名を連ねた。背番号『13』はゴールデンステート・ウォリアーズフィラデルフィア・76ersロサンゼルス・レイカーズ永久欠番となっている。
== NBA入り前 ==
チェンバレンは肺炎で死にかけたこともあるほどの病弱な幼少期を過ごし、学校をまる一年休んだこともあった。少年時代はバスケットボールを「弱虫がするゲーム」と毛嫌いしており、かわりにトラック競技やフィールド競技に熱中。走り高跳びでは198cm、440ヤード走では49秒、880ヤード走では1分58秒、砲丸投げでは16.3m、走り幅跳びでは6.7mの好記録を残している。しかしフィラデルフィアではバスケットボールが盛んだったこともあって少しずつバスケットボールに傾倒し始め、10歳の頃には183cm、そしてオーバーブルック高校に通い始める頃には211cmと急速に身長が伸びたことから、本格的にバスケットボールに始めたのは12歳だった。
===高校時代 ===
オーバーブルック高での1953年のシーズンからチームのエースとして活躍。平均31得点を記録し、パブリックリーグのタイトルに導いている。1954年のシーズンでは同校の新記録となる1試合で71得点をあげるなどして、平均40得点を記録。前年のフィラデルフィア・シティ・チャンピオンシップで敗れていたサウスカトリック高校を74-50の大差で破り、同タイトルとパブリックリーグ・タイトルの二冠を達成、このシーズンのオーバブルック高は19戦全勝の成績を残している。
1955年のシーズンに入るともはや彼を止められる高校生選手は存在しなくなり、チェンバレンは3試合連続で74得点、78得点、90得点(この試合ではうち60得点をたった12分であげた)を叩き出すなど暴れ回った。2年連続でパブリックリーグとシティ・チャンピオンシップのタイトルを獲得、サウスカトリック高との決勝では83-42と圧勝するなど、もはや高校バスケ界では敵なしという状態となった。同年にはオール・アメリカチームにも選出され、高校在学中の成績は平均37.4得点、通算2,252得点となり、これは往年の名選手、トム・ゴーラが保持していた記録を破る同校の新記録となり、チームも56勝3敗だった。
後にまで残るニックネームはこの頃つけられた。"Wilt the Stilt" (「竹馬ウィルト」)はひょろ長い風貌からついたあだ名だが、チェンバレンが好まないにもかかわらず使われ続ける。もう一つ "Dipper" は、彼がドアを通るときに頭をかがめた動作からつけられたもので、のちに "The Big Dipper" (「北斗七星」)に転じた。この呼び名はプロ入り後にも続いた。
後にNBAの伝説的なコーチとなるレッド・アワーバックはチェンバレンが高校に在学中の頃から彼の才能に目を着けており、アワーバックは試しに高校生のチェンバレンを、当時NCAA優勝チームだったカンザス大学のスター選手、B.H.ボーンと1on1で試合をさせてみたところ、チェンバレンが25-10と完勝してしまった(将来NBAでの活躍が期待されたボーンはこの敗北で酷く落胆してしまい、バスケットの道を諦めてトラクター・エンジニアになった)。チェンバレンの才能にほれ込んだアワーバックは彼をニューイングランド大学に進学するよう勧めたが(同大学に入ることで地域指名を使って自身が指揮するボストン・セルティックスに入団させるつもりだった)、彼の思惑は外れた。
高校卒業後の進路に注目が集まり、チェンバレンのもとには200以上の大学からのスカウトが訪れた。UCLAハリウッドスターにすることを約束し、ペンシルベニア州立大学はダイヤモンドを提供しようとするなど、勧誘合戦は大いに加熱したが、最終的にチェンバレンが選択したのはカンザス大学だった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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