翻訳と辞書
Words near each other
・ アルマンド・ディアズ
・ アルマンド・トロヴァヨーリ
・ アルマンド・ベジャール
・ アルマンド・ペラーサ
・ アルマンド・ペラーザ
・ アルマンド・マンサネーロ
・ アルマンド・ロサーノ
・ アルマンド・ロブレス・ゴドイ
・ アルマンベト・マツブライモフ
・ アルマン・アルベール・ラトゥー
アルマン・エマニュエル・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ
・ アルマン・ギヨマン
・ アルマン・サラクル
・ アルマン・サラクルウ
・ アルマン・サラクルー
・ アルマン・ダヴィッド
・ アルマン・ダヴィド
・ アルマン・デメ
・ アルマン・デュフレノア
・ アルマン・トラオレ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

アルマン・エマニュエル・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ : ミニ英和和英辞書
アルマン・エマニュエル・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アルマン・エマニュエル・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ : ウィキペディア日本語版
アルマン・エマニュエル・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ[ちょうおん]

第5代リシュリュー公爵アルマン・エマニュエル・ソフィー・セプティマニー・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ(, 1766年9月25日 - 1822年5月17日)は、フランス復古王政時代の政治家である。フランス革命戦争ナポレオン戦争の間は、王党派の一人として大将の地位にいながら、ロシア帝国陸軍において将校として仕えた。
== 生涯 ==

=== 前半生 ===
第4代リシュリュー公爵ルイ・アントワーヌ・ソフィー・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシとその妻アデライード・ド・オートフォール(Adélaïde de Hautefort)の息子としてパリで生まれた。父はルイ15世の寵臣ルイ・フランソワ・アルマン・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシの息子で相続人である。祖父の存命中はシノン伯爵(comte de Chinon)の称号で知られたアルマンは1782年、15歳の時にロザリー・ド・ロシュフォールと結婚したが、夫婦関係は形式的なもの以上には決してならなかった。
結婚して間もなく自分の教師と共に旅行にでかけジェノヴァフィレンツェヴェネツィアを訪問、外国旅行から3年後に王妃マリー・アントワネット近衛連隊に入り、翌年にはルイ16世のもと年老いた祖父が宮廷で務めた内廷侍従長(premier gentilhomme de la chambre)の地位を受け継いだ。内廷侍従長はヴェルサイユ宮殿では毎日の崇高な儀式「ルヴェー(''lever'')」と宮廷人の儀式の間に王の傍に侍ることが務めであり、若年にしてシノンの清教徒的な厳格さが宮廷の評判となったのである。
1788年に祖父が没すると父はリシュリュー公領を相続、シノン伯爵からフロンサク公爵(duc de Fronsac)にあらたまったアルマンは1789年には騎兵隊の中のエステルハージ連隊の隊長を務めている。同年の10月5日ヴェルサイユ行進が始まった時はパリにいて国王一家の安全を危惧し〔Cynthia Cox, ''Talleyrand's Successor'', London (1959) p.30〕、変装すると群衆に紛れ込んで王と王妃に警告すべくヴェルサイユに向かったのだが、路上の多くの人々を突破することが出来ず林の近道を取る。怒れる群衆が宮殿前に集まったちょうどその時に到着するとマリー・アントワネットのもとへ駆けつけ王の部屋へ避難するよう要請しようとする。そうすれば間違いなく王妃の命は長らえるだろうと考えたのだ〔Antonia Fraser, ''Marie Antoinette, The Journey'', New York (2001) p.296〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アルマン・エマニュエル・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.