翻訳と辞書
Words near each other
・ アルフレート・デルプ
・ アルフレート・デーブリーン
・ アルフレート・デープリーン
・ アルフレート・ドンペルト
・ アルフレート・ナウヨックス
・ アルフレート・ノイバウア
・ アルフレート・ノイバウアー
・ アルフレート・ハウゼ
・ アルフレート・バウアー賞
・ アルフレート・フィケンシャー
アルフレート・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ
・ アルフレート・フォン・シュリーフェン
・ アルフレート・フォン・ティルピッツ
・ アルフレート・フォン・リヒテンシュタイン
・ アルフレート・フォン・ヴァルダーゼー
・ アルフレート・フォン・ヴァルデルゼー
・ アルフレート・フラトー
・ アルフレート・フリート
・ アルフレート・フーゲンベルク
・ アルフレート・ブレンデル


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

アルフレート・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ : ミニ英和和英辞書
アルフレート・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ[ぶる]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ブル : [ぶる]
 【名詞】 1. bull 2. (n) bull

アルフレート・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ : ウィキペディア日本語版
アルフレート・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ[ぶる]

アルフレート・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ(, 1874年10月15日 - 1899年2月6日)は、ドイツザクセン=コーブルク=ゴータ公国公世子。またイギリス王族としてエディンバラ公爵位の相続予定者だった。英語名はアルフレッド・オブ・エディンバラ()。
== 生涯 ==

1874年10月15日、エディンバラ公アルフレッドヴィクトリア女王の次男)とその夫人マリヤ・アレクサンドロヴナロシア皇帝アレクサンドル2世の次女)の間の長男(第1子)として生まれた。11月27日にバッキンガム宮殿の一室で、カンタベリー大主教により洗礼を受けた。洗礼の代父母にはヴィクトリア女王(祖母)、アレクサンドル2世(祖父)、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世(曾祖叔父)、ドイツ皇太子妃ヴィクトリア(伯母)、ザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト2世(大伯父)、ウェールズ公エドワード(伯父)が名を連ねた〔Yvonne's Royalty Home Page — Royal Christenings 〕。
少年時代はで暮らした。アルフレッドは才能豊かだが非常に繊細な少年だった。父がザクセン=コーブルク公爵家の家督を継ぐことが決まっていたこともあり、アルフレッドは家庭教師のヴィルヘルム・ロルフス博士から厳格なドイツ式教育を受けた。ロルフスはアルフレッドの自尊心を傷つけるのを好んだ。アルフレッドは妹たちとは引き離されて育てられ、海軍軍人として常に不在がちな父とも疎遠だった。傲慢で冷たい性格の母は、家庭教師による息子の教育方針を支持した。アルフレッドの少年時代は家庭的な温かみとは無縁のものだった。
1893年に父がザクセン=コーブルク公爵家の家督を継ぐと、家族とともにコーブルクのに移った。後にポツダム駐屯のプロイセン軍所属の少尉に任官したが、軍務への熱意は示さなかった。公世子となって間もなく、アルフレートは母方の又従妹にあたるヴュルテンベルク公女(母の従妹ヴェラ・コンスタンチノヴナ大公女の長女)と婚約し、1895年1月28日付の英国王室行事日報にも2人の婚約記事が掲載された。しかし婚約は後に破棄された。
アルフレートはポツダムでの不品行のために梅毒に罹り、1899年1月22日に行われた両親の銀婚式の記念式典にも出席できないほど症状が進行し、麻痺性痴呆が始まっていた。この式典の最中に1人になったアルフレートは拳銃で自殺を図り、重傷を負ってゴータのに運び込まれた。1月25日、療養のためにメランのマルティンブルン療養所に移送されたものの、2月6日に24歳の若さで死去した〔。翌1900年に父が死去すると、ザクセン=コーブルク=ゴータ公位は従弟のチャールズ・エドワードに移った。
当時、死因については新聞などには腫瘍のためと発表され〔、遺族の回想録などによる証言でも病因による衰弱と示唆されるに留まっていた。他方、拳銃自殺の理由として、アイルランド貴族の第4代リンスター公爵の孫娘メイベルと1898年に秘密結婚したことで、母親を始め家族に猛反対されたためだとする説も存在する〔1940年代に出現したこの説は信憑性が極めて低い。アルフレートとメイベルが面識があった証拠はどこにもなく、メイベルは1898年にはまだ14歳の少女だった。さらに彼女が1910年にウィリアム・クラーク・ハドークと結婚した際、新婦は初婚だと記録に残されている。〕。この説にはそれを裏付ける資料も客観的な信憑性もないが、一部の伝記作家に加えて、現在のコーブルク公爵家の公式見解もこの説を支持している〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アルフレート・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.