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アブー・ムスリム : ミニ英和和英辞書
アブー・ムスリム[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アブー・ムスリム : ウィキペディア日本語版
アブー・ムスリム[ちょうおん]
アブー・ムスリム(、、Abu Muslim Abd al-Rahman ibn Muslim al-Khurasani、? - 755年)は、アッバース朝の政治家、軍人。漢語史料では並波悉林と表記される。
イランホラーサーン地方におけるアッバース革命の指導者で〔森本「アブー・ムスリム」『新イスラム事典』、64頁〕、アッバース朝の建国に大きな役割を果たした功労者の一人に数えられる〔羽田「アブー・ムスリム」『アジア歴史事典』1巻、68頁〕〔前嶋「アブー・ムスリム」『世界伝記大事典 世界編』1巻、164-165頁〕。アッバース家のダーイー(宣伝者)としてホラーサーンに派遣され、反ウマイヤ朝運動を指導した。挙兵以後にアブー・ムスリムが殺害した人間の数は、600,000人に達すると言われている〔前嶋『イスラム世界』、195頁〕。
== 生涯 ==

=== 前半生 ===
アブー・ムスリムの出自と前半生については不明な点が多い〔前嶋『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』、165頁〕〔高野「アブー・ムスリム」『岩波イスラーム辞典』、58頁〕。父親の出自は不明で、母親はイラン系の女奴隷と考えられている〔佐藤『イスラーム世界の興隆』、129頁〕。ユーフラテス川沿岸の町クーファの近郊で生まれたと考えられているが〔、一説にはエスファハーン〔〔アリ『回教史』、135頁〕、あるいはメルヴ(マルウ)の出身ともいわれる。元々はシーア派の人間とも言われ、シーア派の人間が多く集まるクーファに住んでいた〔前嶋『イスラム世界』、170頁〕。アブー・ムスリムは自分の出自について尋ねられても言葉を濁し〔〔、内部分裂を未然に防ぐためにアブー・ムスリムはあえて出自を隠していたと推測する意見もある〔余部『イスラーム全史』、78頁〕。
アブー・ムスリムは奴隷、もしくはマワーリー(解放奴隷)としてアラブ系のイジュル家に属した〔。741年頃にアブー・ムスリムはメッカで投獄されていたときに、アッバース家の人間によって釈放された。744年にアブー・ムスリムはクーファから派遣された宣伝者とともに東方のホラーサーン地方を訪れ、その後クーファに帰還した。745/46年、アブー・ムスリムはアッバース家の家長イブラーヒームの代理として再びホラーサーンに派遣され、メルヴに赴いた。ウマイヤ朝の監視網をかいくぐるため、アブー・ムスリムはみすぼらしいロバに乗ってホラーサーンに現れた。アブー・ムスリムはホラーサーンでウマイヤ朝の社会に不満を抱く人間を糾合し、非イスラム教徒に対して布教活動を行った〔小杉泰『イスラーム帝国のジハード』(興亡の世界史, 講談社, 2006年11月)、202頁〕。アブー・ムスリムの宣伝活動は、ホラーサーン地方におけるウマイヤ朝打倒の政治的・宗教的熱意を活性化させることになった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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