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ちばフラワーバス : ミニ英和和英辞書
ちばフラワーバス[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ちばフラワーバス : ウィキペディア日本語版
ちばフラワーバス[ちょうおん]

ちばフラワーバス株式会社は、1991年に有限会社冷熱サービスとして設立され、1995年4月1日より京成電鉄成東自動車営業所の路線を引き継ぐ事でバス運行業務を開始した事業者である。現在の運行エリアも旧・成東営業所とほぼ同じで、千葉市山武市東金市八街市を中心に路線を展開しているが、特に千葉駅 - 成東駅を結ぶ千葉線に高い比重が置かれている。
== 沿革 ==

=== 戦前 - 千葉都市モノレール開通 ===
ちばフラワーバスとしての歴史は平成より始まるが、各バス路線の沿革をたどると、実は非常に古くから始まる。現在のフラワーバスの主幹路線である千葉線は1930年昭和5年)の開通であるが、これは京成電気軌道(現・京成電鉄)としての開通であり、実際には大正時代(開通年は諸説ある)に両総自動車という会社により千葉 - 東金にて開通している。この時の営業所は千葉営業所(当時の場所は初代・京成千葉駅近く)である。また、ルートも若干異なり、千葉駅 - 都町間は現・国道126号線ではなくその少し南の道路(千葉中央バスが松ヶ丘線として運行している道路)を経由していた。
その後京成は、1943年(昭和18年)に当時成東付近を運行していた成東自動車の買収を行い、成東営業所を設置した。これらは第二次世界大戦時における鉄道及びバスの統合政策により東金・成東地区の統合事業者が京成電気軌道となった事によるもので、これにより京成は都内から九十九里浜まで路線を延ばす事となった。なお、成東自動車は事前に佐倉自動車を買収していたので、この時点で佐倉地区のバス路線も京成の成東営業所の担当となった(なお、佐倉地区のバス路線は1971年に佐倉営業所として分離され、現在はちばグリーンバスとして分社化されている。)。
終戦を経て、『京成電鉄五十五年史』によれば、1960年(昭和35年)に成東営業所新設とある。1943年に設置されたにも関わらず、17年後に再び設置されている事から、第二次世界大戦の影響で初代成東営業所を一旦千葉営業所に統合したと推測される。
戦後は成東町内と八街市内の路線の充実に努め、後述する各線の他に多数の路線の新設を行った。これとは別に千葉駅 - 蓮沼海岸を直通する急行バスなども新設され、鉄道よりも優位に立っていた。しかし、昭和40年代を境にこの営業所も輸送量のピークを迎える事となった。結局、総武本線との並行区間が多い八日市場線や、他線に比べて線形の劣る松尾線、下横地線などが次々と廃止され、前・京成千葉駅 - (町方又は吉倉) - 八街駅 - 成東駅を通しで運行していた八街線と新八街線が八街駅で分割された。
そして、1987年(昭和62年)2月26日に成東発の主幹路線だった蓮沼線と小松線を統合、同時に蓮沼方面の特急バス(国道126号線経由)を廃止し、千葉東金道路を経由して成東駅に至る東金特急線(フラワーライナー)の新設という根本的なダイヤ改正が行われ、東金線以外は必要最小限度の運行本数に抑えられた。さらに、1991年平成3年)6月12日千葉都市モノレールが千葉駅まで乗り入れる様になると、八街線と新八街線はそれぞれモノレールの駅である都賀駅千城台駅を発着する様に短縮された。この時に当時千葉営業所担当だった宮田線も千城台駅発着となっている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ちばフラワーバス」の詳細全文を読む




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