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いとこい : ミニ英和和英辞書
いとこい
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


いとこい ( リダイレクト:夢路いとし・喜味こいし ) : ウィキペディア日本語版
夢路いとし・喜味こいし[ゆめじいとし きみこいし]

夢路 いとし・喜味 こいし(ゆめじ いとし・きみ こいし)は、戦前から21世紀初頭にかけて活動した、夢路いとし喜味こいし兄弟による日本漫才コンビ。1937年に少年漫才コンビとして活動を開始、2003年9月にの夢路いとしが死去するまで活動を続けた。1999年大阪市指定無形文化財に指定。「上方漫才の宝」と呼ばれる。
== 経歴 ==

=== コンビ結成 ===
夢路いとし(本名・篠原博信)と喜味こいし(本名・篠原勲)は兄弟で、旅回りの劇団に所属する両親の間に生まれた〔喜味2008、3頁。〕〔喜味・戸田2004、7-8頁。〕。父親は元警察官であったが、芝居好きが高じて退職し、芸能の世界に飛び込んだという〔井澤1988、194-197頁。〕。また、看護師だった母はその父に従い、三味線を習得して巡業に帯同したという〔。
幼い頃の2人は子役として活動(初舞台はともに1932年)し、兄の博信は東京で映画に出演、弟の勲は劇団の巡業について全国を巡り、芝居に出演した〔〔喜味2008、4-7頁。〕〔桂・上岡2000、197-199頁。〕。1936年二・二六事件をきっかけに一家は名古屋で暮らすようになった〔喜味2008、17-20頁。〕。名古屋でも2人は芝居に出演した。変声期を迎え「大人とも子供ともつかんような中途半端な年齢」に差しかかっていた2人はチンピラ劇〔子役が主役を演じ、脇役を大人が演じる形式の芝居。〕に出演するようになり、そこで漫才のような掛け合いを演じた〔桂他2009、127-128頁。〕。2人は、父が書いた『野球但馬守』なる掛け合いの台本を記憶している〔。
ある時2人は共演者で玉乗り芸人の井上金太郎に掛け合いが面白いと評価され、漫才師に転向するよう勧められた〔〔。井上の勧めに従うことにした2人は井上の紹介で漫才師の荒川芳丸(井上が属する一座の座長を務めていた)に弟子入りすることになり、1937年秋に一家で荒川の一座に入った〔〔〔喜味・戸田2004、21-26頁。〕。荒川は漫才師となった2人に荒川芳博・芳坊という芸名をつけた(芳博が後の夢路いとし、芳坊が後の喜味こいし)〔喜味2008、20-21頁。〕〔。喜味こいし(芳坊)曰く、荒川自身は「を叩くような古いスタイルの漫才」をやっていたがそのような漫才は時代遅れだと認識しており、2人にしゃべくり漫才をやるように勧めた〔〔〔。コンビ結成当初はしゃべくり漫才が世間に漫才として十分に認知されておらず、地方の興業では客から「漫才をやれ!」と野次られ、泣きながら演じることもあった〔2人は、とくに和歌山では「やめとけやぃ」と野次の合唱が起こったと回顧している(桂・上岡2000、211頁。)。〕〔喜味2008、22頁。〕〔〔桂・上岡2000、210-212頁。〕。
1940年10月に荒川芳丸が急死し、一座は解散した〔喜味2008、28-30頁。〕。芳丸の息子の荒川小太郎が吉本興業の所属となり、小太郎の誘いを受けた2人も手見せ〔客の前で演じるところを興行主にも見せる形式の採用試験。こいしは、「今でいうオーディション」だと述べている(喜味2008、28頁。)。〕を経て吉本興業に所属することになった〔〔〔。2人は家族とともに大阪へ移り、当時大阪で最も権威のあった寄席である南地花月と花月倶楽部をはじめとする吉本興業直営の寄席に出演した〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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