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J・マイケル・ストラジンスキー : ミニ英和和英辞書
J・マイケル・ストラジンスキー[じぇいまいけるすとらじんすきー]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

J・マイケル・ストラジンスキー : ウィキペディア日本語版
J・マイケル・ストラジンスキー[じぇいまいけるすとらじんすきー]

ジョゼフ・マイケル・ストラジンスキー〔 によれば、正しい発音は「ストラチンスキ」〕(Joseph Michael Straczynski、1954年7月17日 - )はアメリカの作家でテレビ・プロデューサー。J・マイケル・ストラジンスキーを名乗っており、非公式にはジョー・ストラジンスキーあるいはJMSとも。作品は、映画、小説、コミック、ラジオドラマなど多岐に渡る。脚本家でもあり、かつてはジャーナリストだった。また脚本家のための教科書『シナリオの書き方』(''The Complete Book of Scriptwriting'') の作者としても知られている。SFテレビドラマ『バビロン5』の脚本・総監督を務めた。『バビロン5』の全110エピソードのうち92エピソードの脚本を書き、それと並行して進められたテレビ映画版5作品の脚本も書いている。2001年から2007年まで、マーベル・コミックの長く続いたシリーズ『アメイジング・スパイダーマン』の脚本家を務めた。
2009年、映画『チェンジリング』の脚本が英国アカデミー賞にノミネートされた。
Usenetや初期のコンピュータネットワークで1984年ごろから活動しており、各種オンライン・フォーラム(GEnieCompuServeAOLなど)でファンと交流してきた。インターネット上でファンと直接対話した最初のテレビ・プロデューサーとされ、ファンの意見を番組に反映させた(''Babylon 5'''s use of the Internet を参照)。特に GEnie とニュースグループの rec.arts.sf.tv.babylon5.moderated でよく活動していた。最近はFacebookにページを持ち、そこでファンと交流している。
サンディエゴ州立大学 (SDSU) 出身で、心理学と社会学を学んだ。SDSU在学中は学生新聞 ''The Daily Aztec'' で記事を書いていたが、あまりにストラジンスキーの書いた記事が多いため "Daily Joe" などと冗談めかして呼ばれることがあったという。現在はロサンゼルスに在住。
== 生い立ち ==
ニュージャージー州パターソンで生まれる。父は肉体労働者だった〔J. Michael Straczynski Biography (1954-) filmreference.com〕。その後、ニューアークイリノイ州カンカキー、テキサス州ダラスカリフォルニア州チュラビスタと引越し、チュラビスタで高校を卒業後、大学に進学してサンディエゴに移った。ストラジンスキー家の祖先はベラルーシ人ポーランド人で、一家はカトリック教徒だった。曽祖父母がロシア革命から逃れてアメリカにやってきた。父はアメリカで生まれているが、ドイツポーランドロシアに住んでいたことがある〔。
サンディエゴでは、''San Diego Magazine'' と ''The San Diego Reader'' 向けに文章を書き、ラジオドラマ ''Alien Worlds'' の脚本も書き〔Alien Worlds Radio Show Index 〕、''Writer's Digest'' から脚本についてのノンフィクション本の執筆契約を勝ち取った。
サンディエゴ州立大学で出会ったキャスリン・M・ドレナンと共に1981年4月1日にロサンゼルスに移住(1983年に結婚)〔。テレビ界への進出を計画すると同時に本の執筆に取り組んだ。ロサンゼルスでは、''The Los Angeles Herald-Examiner''、ロサンゼルス・タイムズ、''The Los Angeles Reader''、''TV-Cable Week''、ピープル誌向けに文章を書き〔、1983年、テレビアニメ ''He-Man and the Masters of the Universe'' の脚本を書いてそのプロデューサーに認められ、テレビ脚本家としての活動を始めた〔。
著書(''The Complete Book of Scriptwriting'' 初版)に書かれていた略歴によると、ストラジンスキーは17歳のとき初めて戯曲を書き、21歳のときに連続ホームコメディを書き、24歳のとき初めて映画の脚本が売れたという。カリフォルニアなどで脚本執筆の講座やセミナーの講師を長年務めている。
ロサンゼルスのFMラジオ局で1987年から1992年までの5年間、Larry DiTillio と共に ''Hour 25'' というトーク番組の司会を務めていた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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