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J.A.マッファイ : ミニ英和和英辞書
J.A.マッファイ[じぇいえいまっふぁい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


J.A.マッファイ : ウィキペディア日本語版
J.A.マッファイ[じぇいえいまっふぁい]

J.A.マッファイ(''J.A.Maffei'' )は、蒸気機関車に代表される鉄道車両ロードローラーなどを製造していたドイツ企業である。
会社存続期間中の代表社名は“機関車および機械製作所 J.A.マッファイ”(Lokomotiv-und Maschinenfabrik J.A.Maffei)と称し、創業から1931年のクラウス社との合併までの約90年間に5,000両以上の機関車〔その中には蒸気機関車だけではなく、無火機関車電気機関車、あるいは蒸気タービン機関車なども含まれる。〕を製造した。
== 沿革 ==
1835年のドイツ最初の鉄道開業に感銘を受けたヨーゼフ・フォン・マッファイ(Joseph Anton von Maffei:1790 - 1870)らが、バイエルン王国内での機関車の国産化を目的として1837年ミュンヘンエングリッシャーガルテン(英国庭園)北東、ヒルシュアウ(Hirschau)に所在した小規模な鉄工所〔ヒルシュアウ鉄工所(Eisenwerk Hirschau)。ただし鉄工所と言っても蒸気ハンマーを製造した実績があり、機関車製造に必要な能力は備えていた。〕を購入して創業した。
その創業はミュンヘン-アウクスブルク間に鉄道が建設されるのを見越してのものであり、同鉄道建設に当たって鉄道先進国であったイギリスから招聘されたジョーゼフ・ホール(Joseph Hall)〔1839年にマッファイ社へ入社、初代技監となった。〕の薦めと指導に従って、1841年には同社第1作となる“デア・ミュンヒェナー”(Der Münchener)〔軸配置1A1の飽和式蒸気機関車。ジョーゼフ・ホールがスチーブンソンの下で長年働いていた技術者であったこともあり、内側スティーブンソン式弁装置など、基本的には当時のスティーブンソン社製機関車を模倣した設計であった。〕と呼ばれる蒸気機関車を完成した。これは当初の目論み通り1840年に開業したミュンヘン・アウクスブルク鉄道(München-Augsburger Eisenbahn-Gesellschaft)へ納入され、さらに続く8両(製番2 - 9)は王立バイエルン邦有鉄道 (Königlich Bayerische Staats-Eisenbahnen)へ納入〔最初の6両は一括発注であり、バイエルン王国が自国内における機関車製造業の育成を意図して大量発注を行ったものと見られる。〕された。
以後はドイツ国内の鉄道建設進展に合わせて順調に業績を拡大し、最初の10年間で約70両の機関車をドイツ・オーストリアイタリアの各鉄道へ納入した。
1851年には有名なゼメリング・コンテスト〔オーストリアのウィーンとイタリアのトリエステを結ぶ鉄道(後のゼメリング鉄道)の建設を計画したジュトラント官有鉄道(Südland Staatsbahn)が、同鉄道のルート上において最大の難所と目されたゼメリング峠(Semmering-Pass:頂上の海抜は927mで、オーストリア-イタリア間に位置するアルプス山脈の峠の中では最も低い)越えの区間で使用する機関車について、懸賞金をかけて開催したコンテスト。〕に製番72となる“バヴァリア”(Bavaria)〔軸配置B-B-Cで中央のBのみシリンダーからロッドで駆動され、前後のBとCにはそこからチェーンで動力が伝達されるという極めて特異な構造の関節式機関車。ただしチェーンの耐久性や強度から実用化はなされなかった。〕を提出、これが優勝し賞金を獲得したことで、勾配線用機関車を得意とするメーカーとしてマッファイ社の名声は高まった。
またこの頃、マッファイ社はバイエルン東鉄道(AG der Bayerischen Ostbahnen)の運営に建設計画段階から関与した。これにより、同鉄道が王立バイエルン邦有鉄道へ吸収されるまでの12年間に新造した機関車全189両の受注は同社が独占する結果となった。しかも、吸収先である王立バイエルン邦有鉄道も上述の通りマッファイ社創業以来の重要な顧客であったことから、19世紀末にはマッファイ社による機関車の年間生産実績はその50%以上が王立バイエルン邦有鉄道向けとなり、この関係は同鉄道がドイツ国鉄に統合されるまで続いた。
創業者であるヨーゼフ・アントン・フォン・マッファイの没後〔ヨーゼフの財産は甥の名誉工学博士フーゴ・リッター・フォン・マッファイ(Hugo Ritter von Maffei:1836 - 1921)が相続し、マッファイ社についても同様に以後は彼が所有し経営することとなった。なお、マッファイ社は創業からフーゴの没後1927年に行われた改組まで、個人企業のままであった。〕も、会社の規模は拡大の一途をたどった。1874年には累計1,000両目の機関車がヒルシュアウ工場から出荷され、河川用船舶〔蒸気機関を搭載する船舶の製造そのものは1847年に着手し、1851年完成の“マクシミリアン”(Maximilian)を端緒として1926年までに合計44隻が出荷された。〕やロードローラーなどの製造も行われるようになった。
1890年にはマッファイ社は、アナトール・マレーによって開発されたばかりの関節式機関車の1方式である、マレー式機関車の製造を開始した〔第1号機はゴッタルド鉄道(Gotthardbahn)向けにアナトール・マレーと共同で設計した軸配置C+Cの標準軌間用であった。〕。これらは、軸配置B+BあるいはC+Cと比較的小型のタンク機関車を中心に、スイス・オーストリア・ブルガリアなどの急曲線が連続する勾配線区を多数抱えるヨーロッパ各国の鉄道に納入された。特に山岳国であるスイスではスイス中央鉄道(Schweizer Central Bahn)向けに合計16両のB+Bタイプ〔後のスイス国鉄Ed 2x2/2形7681 - 7696。〕を、地元バイエルンでは邦有鉄道へBB II型と称する31両のB+Bタイプを納入し、共に急曲線を抱える勾配線区における有効な輸送力強化手段となった〔最終的に、マッファイ社はクラウス社との合併までに117両の勾配線用マレー式機関車を製造している。〕。更には新規市場開拓として、軸配置B+Bタイプの完成形となったBB II型を狭軌用として改設計したモデル〔後の国鉄4500形蒸気機関車。台枠や動軸などの寸法を狭軌対応とし、ボイラーの火格子面積を保ちつつ火室の幅を狭め奥行きを拡大する、といった細部の修正は加えられたが、基本設計はほぼBB II形のままであった。〕を試作し、1903年大阪の天王寺で開催された第5回内国勧業博覧会へこれを出展するなどの試みも行われた〔この日本市場へのマレー式機関車の売り込みそのものは失敗に終わったが、それまで1両も納入実績がなかった日本からの機関車発注が、これ以降決して多くはなかったものの行われるようになり、その中には画期的な大型5動軸タンク機関車である鉄道院4100形4両も含まれていた。〕。
20世紀に入る頃から、マッファイ社は自社の所在するバイエルン王国と隣接する、バーデン大公国が運営するバーデン大公国邦有鉄道 (Badische Staatsbahn)との関係を強めた。強力な急行列車用機関車を求める同鉄道の注文に応じ、同鉄道の機関車製造担当官であったアレクサンデル・クールタン(Alexander Courtin)と、マッファイ社の製造部長であったアントン・ハンメル(Anton Hammel:1857 - 1925)、それにハンメルの部下であるハインリッヒ・レップラ(Heinrich Leppla:1861 - 1950)が共同で、分厚い圧延鋼板をくりぬいた棒台枠と一体鋳鋼製のシリンダブロックによる強固な基本構造に複式4気筒による精緻な駆動系を装備する、強力かつ高速な急行列車用機関車の設計を始めたためである。
その最初の成果であるIId形は144 km/hの速度記録を達成し、その同型機がマッファイ社にとっては地元であり、かつ重要な顧客である王立バイエルン邦有鉄道などにも納入されるなどの成功を収めた。以後はこれを基本として、当時のドイツにおける蒸気機関車の最高速度記録(154.5km/h)を達成した王立バイエルン邦有鉄道S2/6型蒸気機関車、流麗な容姿と斬新な設計、それに極めて高速かつ強力な走行性能で一大画期をなした新設計のパシフィック機であるIVf型とその改良型であるIVh型、そしてドイツ国鉄統合後、制式機関車の製造が始まってからも特に望まれて追加製造が行われたほどの優秀さで知られた王立バイエルン邦有鉄道S3/6型蒸気機関車、と優秀な機関車がこの時代に続々と輩出された。
その一方でマッファイ社は市場の拡大を狙い、1905年頃から同業のクラウス社製機関車に倣った設計〔ウェルタンクの採用など。それまでマッファイ社はウェルタンクの採用実績が一切なく、このためこの設計技法の習得を目的として自社で受注した八幡製鐵所37(後の172)となるべき機関車の製造をクラウス社へ委託し、クラウス社からの納品後、これを詳細に調査したと見られている。この結果、これ以後日本の各社へ納入されたマッファイ社製小型機ではクラウス流の設計が標準採用されるようになっている。〕の小型機関車の拡販にも努めるようになった。拡販策の一環として、コッペル社経由での国外販売〔例えば日本の八幡製鐵所へ納入された38・39(後の173・174)はそれぞれアルトゥール・コッペル社とオーレンシュタイン・ウント・コッペル-アルトゥール・コッペル社を代理店として日本へ販売されている。なお、取扱会社名の相違はコッペル社傘下の各企業の大規模な統廃合が1909年に行われ、ドイツ国外向け販売会社としてのアルトゥール・コッペル社が当時“軽便鉄道用品会社旧名オーレンシュタイン・ウント・コッペル”を名乗っていた車両メーカーとしてのオーレンシュタイン・ウント・コッペル社と合併したことによる。〕も一部で行われている。さらに、1907年にはベルリン機械製造(BMAG:Berliner Maschinenbau A.-G. vormals L. Schwartzkopff, Berlin)との合弁会社であるマッファイ-シュヴァルツコップ製作所(Maffei-Schwartzkopff-Werke GmbH)を設立、同社はBMAGと共同で1909年より電気機関車の製造に参入している。
しかしながら、こうした努力にもかかわらず、マッファイ社の栄光の日々は長くは続かなかった。第一次世界大戦中の軍用機関車量産がドイツの休戦協定発効で打ち切りとなり、さらに戦後同国を襲った世界恐慌によって財政面で壊滅的な打撃を受けたためである。
かくしてマッファイ社は1927年に株式会社へ改組の上でJ.A.マッファイ株式会社(J.A.Maffei A.-G.)と改称され、1929年には工場閉鎖の危機にまで追い込まれた。
幸いこの時は経営が持ち直し、1930年には株式上場を果たしたが、翌1931年には同じミュンヘンの同業者であるクラウス社と合併、クラウス=マッファイ社となり、機関車製造事業は旧クラウス社アラッハ(Allach)工場〔現在のクラウス・マッファイ社本社工場。〕へ集約された。これによりマッファイ社創業以来のヒルシュアウ工場は閉鎖され、90年にわたる歴史に終止符を打つこととなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「J.A.マッファイ」の詳細全文を読む




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