翻訳と辞書
Words near each other
・ 95ヶ条の提題
・ 95ヶ条の論題
・ 95年
・ 95式 (自動小銃)
・ 95式アサルトライフル
・ 95式小型乗用車
・ 95式戦闘機
・ 95式自動小銃
・ 95式自動歩槍
・ 95式自走対空機関砲
95式軽戦車
・ 95式野砲
・ 95箇条の意見書
・ 95箇条の論題
・ 95系統 (横浜市営バス)
・ 9600型
・ 9600型機関車
・ 9600形
・ 960年
・ 960年代


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

95式軽戦車 : ミニ英和和英辞書
95式軽戦車[くるま]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しき]
  1. (n,n-suf) (1) equation 2. formula 3. expression 4. (2) ceremony 5. (3) style 
: [けい]
  1. (n,pref) light 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦車 : [せんしゃ]
 【名詞】 1. tank (military vehicle) 
: [くるま]
 【名詞】 1. car 2. vehicle 3. wheel 

95式軽戦車 ( リダイレクト:九五式軽戦車 ) : ウィキペディア日本語版
九五式軽戦車[きゅうごしきけいせんしゃ]

九五式軽戦車(きゅうごしきけいせんしゃ)は、1930年代中期に開発・採用された大日本帝国陸軍戦車軽戦車)。秘匿名称「ハ号」(「イ号」は八九式軽戦車、「ロ号」は九五式重戦車日本戦車記事『ロ号車は九五式重戦車』 〕)。
日本戦車としては最多の2,378輛が生産され、九七式中戦車 チハ(チハ車)とともに第二次世界大戦中の日本軍の主力戦車として運用された。
== 背景 ==

1920年代後半に開発・採用された、日本初の国産量産戦車である八九式軽戦車(後の八九式中戦車)は、スペック上では良道を最高速度 25km/h で走行することが可能だった。この最高速度は、同時期の欧米戦車(ソ連のT-18、米国のT1中戦車、英国のヴィッカース Mark II中戦車)などと比較しても同等水準であり、むしろ陸軍が研究用に輸入していたフランスのルノー甲型・乙型(ルノーFT-17軽戦車NC27軽戦車)と比べれば速い方であった。
しかし、1930年代になると技術力の向上によりトラックを含む自動車の最高・巡航速度も上がり、八九式の25km/hですらトラックの40km/hに追いつけず、不十分となった。また欧米では、1930年代に各国に広く輸出されたヴィッカース 6トン戦車(1928年)や、ソ連の快速戦車BT-2(1931年)が登場するなど、従来より高速を発揮可能な新型戦車が配備されるようになった。さらに八九式は中国戦線における悪路、路外での投入では最高速度を発揮できず、8km/h ~ 12km/h 程度が実用速度となった。このような機動力では、最前線で歩兵部隊に随伴し支援を行うには問題ないが、路外で追撃戦を行うのには遅過ぎた。1933年(昭和8年)の熱河作戦にて最高速度 25km/h の八九式軽戦車は次々と脱落し、最高速度 40km/h の九二式重装甲車が活躍したこともあり、トラックとの協同作戦行動ができる戦車の必要性を痛感した陸軍は、機動力に富んだ「機動戦車」の開発を開始した〔現代的な用語を使うなら、「戦術機動性」が求められたといえる。〕。
また、八九式軽戦車は改修を重ね、最終的に車重11.8tとなった。八九式は、本来陸軍が英国からの購入を求めたヴィッカース Mark I軽戦車(11.7t)や、その代わりの参考用に輸入したビッカースC型中戦車(11.5t)のように、1920年代当時の世界水準に合わせて10t程度の戦車として開発されたものの、実際に運用してみると、10t前後という重量は決して運用できない数値ではなかったが、しかし十分な性能を持ちながら、かつ、船舶輸送や揚陸、渡河などの日本軍の戦車運用能力にもっとも適した重量は、6t前後であることが判明した〔現代的な用語を使うなら、国外への輸送に最適なように「戦略機動性」が求められたといえる。〕。
結果として八九式は、機動力を重視する1930年代の帝国陸軍のニーズに合っていない、遅く、重く、運用しづらいなど、「軽戦車としては」失敗作となってしまった(低速な歩兵支援用の中戦車としては運用可)。いわば八九式は1920年代の思想で作られた戦車群の最後発であり、1930年代の戦車の高速化の時代に対応できなかった、一世代遅れの戦車であった。この頃、陸軍部内では機械化部隊の創設を模索している最中であり、主力となる新型戦車は、ある程度の数を揃える必要性と財政上の理由からも、安価な軽戦車とすることが決まっていた。こうして上述の要求(軽くて速くて運用しやすい)を基に、八九式「軽戦車」の後継の、機甲戦力の主力となる戦車として、九五式軽戦車は開発された。1935年(昭和10年)の九五式軽戦車の採用に合わせ、重量の増えた八九式は新たに中戦車の区分(10tより上~20t以内)〔四式中戦車の頃に中戦車の分類基準の上限が引き上げられたと考えられる。重量40tのホリが中戦車なので、おそらく(10tより上~40t以内)。〕を設けた上で中戦車に再分類された。同時に重戦車の分類基準〔1935年(昭和10年)に採用された九五式重戦車の重量が26tなので、おそらく(20tより上~30t以内)もしくは(20tより上~)。〕も引き上げられた。
九五式軽戦車は軽量・快速だが小型・軽装甲であり37mm戦車砲の榴弾の威力が小さい(危害範囲が狭い)ので、本車を補完するために、八九式「中戦車」の後継として、八九式よりも最高速度と装甲厚を増した九七式中戦車が開発された。榴弾の威力が大きい(危害範囲が広い)が装甲貫徹能力に劣る短砲身57mm戦車砲を搭載した九七式中戦車は、「火力支援戦車」「歩兵支援戦車」の色合いが濃い物であった。
こうして1920年代後半の「軽戦車(主力・多数)と重戦車(補完・少数)の二本立て」で戦車隊を整備するという日本陸軍の構想は、1930年(昭和5年)を境に大きく転換し、最新の軽戦車と豆戦車が研究用に輸入され、1930年代前半の「軽量化と高速化」の要求に対応し、1935年(昭和10年)に重戦車が中戦車に置き換えられて「軽戦車と中戦車の二本立て」となり、暫定的に「九五式軽戦車(40km/h)と八九式中戦車(25km/h)」の組み合わせを経て、1937年(昭和12年)に「九五式軽戦車(40km/h)と九七式中戦車(38km/h)」の組み合わせでようやく達成された。
よく誤解されがちであるが、「九五式軽戦車が余りに非力で主力となる戦車になれない失敗作だったので、代わりに九七式中戦車が開発された」わけではない。また、「中戦車である九七式が主力となる戦車で、軽戦車である九五式が補助となる戦車」という見方は、第二次世界大戦後半の、軽戦車が陳腐化した状況からの間違った見方である。開発当時はあくまでも九五式軽戦車こそが主力であり、九七式中戦車はそれを補完する存在であった。いわば両車は、ドイツ陸軍III号戦車IV号戦車イギリス陸軍巡航戦車歩兵戦車のような関係であった〔また、九五式軽戦車が騎兵科の、九七式中戦車が歩兵科の、要求水準で設計されていることを考えれば、両車はフランス陸軍騎兵戦車と歩兵戦車、アメリカ陸軍の戦闘車と戦車、のような関係の要素があったともいえる。九五式軽戦車は、八九式「軽戦車」の後継であると同時に、騎兵科の実質軽戦車である九二式重装甲車の後継ともいえる。なお九四式軽装甲車の本来の開発目的は牽引車である。〕。
こうした日本陸軍の戦車運用に関する戦闘教義が変化するのは、試製九八式中戦車試製四十七粍戦車砲を搭載することによって、中戦車にも強力な対戦車戦闘能力を求めるようになった、1939年(昭和14年)頃からだと考えられる〔このあたりも、主力であるはずのIII号戦車が、大戦開始後すぐに陳腐化し、支援戦車であるはずのIV号戦車が、長砲身75mm戦車砲を搭載して主力となっていった経緯と似ている。〕。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「九五式軽戦車」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Type 95 Ha-Go 」があります。




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.