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詹天佑 : ウィキペディア日本語版
セン天佑[せん てんゆう]

詹 天佑(せん てんゆう、、〔Jeme Tien Yow は詹天佑がアメリカに留学したときの名前で、外国の文献は全てこの名を用いている。〕)(咸豊11年(1861年4月26日-民国8年(1919年4月24日铁道工程学家詹天佑:“铁路之父”出西关/2005-02-28_08:22:59_南方日报 、2010-10-16閲覧。〕)、眷誠達潮安徽省徽州府婺源県(現在の江西省)の人。〔詹興洪が詹天佑のために書いた「出洋志願書」(留学希望書)に以下の記載がある。
「茲有子天佑,情願送赴憲局,帶往花旗國肄業,學習機藝。回來之日,聽從差遣,不得在國外逗留生理。倘有疾病死亡,各安天命。此結是實……童男詹天佑,年十二歲,身中,面圓白。徽州府婺源県人氏。曾祖文賢,祖世鸞,父興洪。同治十一年三月十五日。〕本籍は広東省南海県。中国初の鉄道技術者。京張鉄路などの建設修理などに携わり、「中国鉄道の父」「中国近代工事の父」などと呼ばれている。
==出生と留学==

乾隆25年(1760年)、詹万榜(詹天佑の曽祖父)は家族を引き連れ、広州に来て茶葉の商売をして、北門外の拱宸坊に住んでいた。嘉慶21年(1816年)、詹世鸞(詹天佑の祖父)は西門外の十二甫に移り住んだ。以降、居住地で科挙郷試に参加させるため、詹世鸞は広州府南海県の籍となることを申請し、嘉慶25年(1820年)に許可され、籍を入れる。詹興洪(詹天佑の父)の代で、茶葉の商売は没落の方向に向かい、暮らしは日増しに貧しくなり、詹興洪は南海県西関一帯で、文章を刻んだり、本や手紙を代書して生計を立てていた。
1861年4月26日詹天佑は西関の十二甫で誕生する。詹天佑はその経歴の中で「広東省南海県」籍と自ら名乗る。実は詹天佑は広州府西関の人である。(当時、西関は南海県に属していた。)
1872年、清末の革新思想家容閎香港で子供を募集していた。詹興洪の友人である譚伯邨はマカオで商売をしており、見識も広く、先見の明もあった。詹興洪夫婦に対して詹天佑に外国行の試験を受けさせるよう勧めた。譚伯邨は中山の人であるが、詹天佑を気に入っており、将来有望と見ていた。彼は四女の譚菊珍を詹天佑に嫁がせることにした。詹興洪は譚伯邨に、詹天佑を香港へ行かせて出願させることを頼んだ。詹天佑は幼い時から学習し、成績も良好であり、香港へ着いて出願にも成功した。詹天佑は外国留学予備班の試験にわずか12歳で合格した。同治11年(1872年)8月、詹天佑を含む清国の初めての公費派遣である留学生児童30人がアメリカに渡った。
詹天佑はアメリカの小学校、中学校で学習した後、1878年には優秀な成績でイェール大学に入学、土木工学を学習し、鉄道を専攻する〔。1881年5月に「埠頭のクレーンの研究」という論文で卒業し、哲学学士学位(Ph.B)を得る。同年、清政府は全ての留学生を召還した。百人あまりの帰国留学生のうち、唐紹儀と詹天佑だけが、学位を取得していた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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