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菊池康郎 : ウィキペディア日本語版
菊池康郎[きくちやすろう]
菊池康郎(きくちやすろう、1929年8月20日 - )は、アマチュアの囲碁棋士東京都出身。世界アマチュア囲碁選手権戦優勝、全日本アマチュア本因坊戦等国内アマ大会優勝20数回を数え、アマ四強と呼ばれた一人。緑星囲碁学園を主宰し、山下敬吾を始め、多数のプロ・アマ棋士を育成している。国際囲碁交流にも尽力、緑星囲碁学園代表、国際囲碁友好会理事長、全国子ども囲碁普及会代表、一般社団法人全日本囲碁協会理事長。
==経歴==
大田区蒲田に生まれ、3歳頃に囲碁好きの父の影響で囲碁を覚え、碁会所で腕を磨く。高輪中学時代に横浜市中山に疎開し、相原忍三段や、伊藤友恵、小泉重郎らの指導を受ける。専修大学に入学後の1948年に全日本アマチュア選手権戦全日本アマチュア本因坊戦の前身)で神奈川県予選で優勝して東日本大会でベスト4入りし注目され、この大会で優勝した影山利郎と親交を得る。また審判長だった安永一に認められて師事。安永の紹介で雑誌『囲碁春秋』『囲碁の友』などでプロ棋士との対局が企画され、1950年『囲碁春秋』では炭野武司六段に二子、先番で連勝する。1950年に仲間内の研究会を作り、後に「緑星会」と命名。1951年に関東大学囲碁リーグ戦出場のために囲碁部を作り〔実際は大学に囲碁を打てるメンバーが菊池以外に一人しかおらず、団体戦には菊池の知人を集めて出場していた。囲碁将棋チャンネル・囲碁スペシャル「盤上から人を育てる~菊池康郎~」(2014年)より。〕、第1回リーグ戦では最終戦で村上文祥を破り11連勝で個人優勝するなど、学生碁界で活躍。1952-53年の「圍碁」誌でのプロアマ二子局で、トッププロを相手に9連勝など、アマプロ戦で活躍。プロがアマチュアに二子で負けるわけがないと言う当時の常識を覆した。またこの頃、既にプロ棋士となっていた影山利郎らにプロ入りを勧められるが、卒業後は八幡製鉄(現新日鉄)に入社。
1955年の第1回アマチュア本因坊戦には仕事のために欠場、第2回は水野弘士に敗れて4位、1957年第3回に優勝し、以後3連覇。その後計13回優勝の他、アマ十傑戦、世界アマ日本代表など多数の優勝を飾る。平田博則村上文祥、原田実と並んでアマ四強と称されて、長くアマチュア囲碁界最強の地位を占め、プロからもプロ六、七段は打てると評されている。1956年の『娯楽よみうり』誌でのアマ強豪との勝ち抜き戦では、アマチュア及びプロの大竹英雄初段に勝ち、続いて工藤紀夫二段に敗れるまで27連勝。その他にも雑誌の企画などでのプロ棋士との対戦で好成績を挙げ、1959年にはプロ棋戦に参加させてはどうかという提案もなされ、『棋道』誌上でも論争された。
1992年には世界アマチュア囲碁選手権戦優勝。2003年の阿含・桐山杯全日本早碁オープン戦予選では予選Cを勝ち抜き、予選Bでは柳時熏七段も破った。棋風は柔軟性に富み、創造性豊かな序盤も特長。
1975年にアマチュアの研究会「緑星会」を再設立。1979年にこれを発展させて、子供のための囲碁教室「緑青囲碁学園」を設立。1981年には新日本製鉄を退社し、以降、緑星学園の活動に専念。多くの有望な子供を育成。出身のプロ棋士も、村松竜一を第1号として、青木紳一青木喜久代山下敬吾、加藤充志、秋山次郎、溝上知親、鶴丸敬一、高野英樹など多数。また1998年から「東日本子供囲碁大会」を企画、開催し、その後「ボンドカップ全日本こども大会」へと発展した。
日中囲碁交流において、1961年を始めとして訪中団に加わる。その後も若手棋士を率いて、中国韓国との交流を積極的に行っている。
社交ダンスで全国大会十傑に入った経歴も持つ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「菊池康郎」の詳細全文を読む



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