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池田親興 : ウィキペディア日本語版
池田親興[いけだ ちかふさ]

池田 親興(いけだ ちかふさ、1959年5月17日 - )は、宮崎県宮崎市出身の元プロ野球選手投手)。
== 来歴・人物 ==
高鍋高等学校入学時より野球を始める。1976年、2年生の時にエースとして夏の甲子園県予選準決勝に進出するが、日南高に敗退。翌年も県予選で敗れ、甲子園には出場できなかった。1977年のドラフト会議では阪神タイガースに4位指名されるが、進学を理由に入団拒否し、スポーツ推薦入学で法政大学に進学。2年上に住友一哉、2年下に和田護(日産自動車)と好投手がおり、東京六大学リーグでは4年次の秋季リーグで2勝するにとどまった。
卒業後日産自動車に入社(実際には日産自動車在籍中にも法大に在学していた)。1982年都市対抗に出場し、準決勝に進出するが、エース石井毅を擁する住友金属に敗退。翌1983年同大会でも東芝に補強され、チームの優勝に貢献する。同年はロサンゼルスオリンピック予選日本代表に選出され、代表決定戦台湾郭泰源と投げ合うが9回裏サヨナラ負け(しかし同五輪をボイコットしたキューバに代り日本が出場権を獲得)。1983年のドラフト会議で改めて阪神から2位指名され入団〔ちなみに1位指名並みの条件だった(同年のドラフト1位は中西清起)。〕。
にルーキーながら終盤まで9勝をマークし、2ケタをかけて中日最終戦(甲子園)に先発したが、同僚の掛布雅之と当日の対戦相手の宇野勝が本塁打争いをしていたため、必然的に宇野を歩かさなければならず、苦しいピッチングを強いられたが(4度歩かせ、2度は得点になっている)、2-2の7回裏に阪神が4点を勝ち越して、リードしたままマウンドを降りた。しかしながら後続が打たれて2ケタ勝利を逃す。参考までにこの時の中日の勝利投手は仁村徹であり、翌年から打者転向した事もあって結果的に初登板初勝利であると共に最後の勝利であった。は開幕投手に指名(翌も務めた)され、チームの日本一に貢献し、1985年の日本シリーズでは初登板で完封勝利を飾った。このとき、試合後に「今日に限って言えば(リーグ6位の)ヤクルトの方が怖かった」と発言したが、後の加藤哲郎のような形で取り上げられることはなかった。
若手時代、長めの髪(マッチカット)と風貌から“球界のマッチ(近藤真彦)”と言われていて、1985年の阪神タイガース優勝時のエースで、岡田彰布サンガリアのCMに出演していた。
1986年は当初は好調だったものの、怪我でシーズンの大半を棒に振った。それを境に相次ぐ故障や不調のために満足な成績を挙げることができず、に大野久とともに福岡ダイエーホークスに移籍〔4対5の大型トレードで、阪神からは池田、大野の他に渡真利克則岩切英司がダイエーに移籍。ダイエーからは藤本修二吉田博之西川佳明右田雅彦近田豊年が阪神に移籍。〕。
移籍後はリリーフに転向した。オフにダイエーを自由契約となり、ヤクルトスワローズに移籍。同年、ヤクルトは日本一に輝いたが、右肘を痛め戦線離脱したため貢献することは出来ず。同年オフに現役引退。
1996年はダイエースカウトを務め、1997年からはダイエー守備走塁コーチとなった島田誠の後任としてテレビ西日本フジテレビ解説者に就任。西日本スポーツ野球解説者を務める。
愛称はチカドンチカさんチカ

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「池田親興」の詳細全文を読む



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