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水野浩 : ウィキペディア日本語版
水野浩[みずの ひろし]

水野 浩(みずの ひろし、1899年4月23日 - 没年不詳)は、日本の俳優である〔キネマ旬報社, p.558-559.〕〔''水野浩''、''jlogos.com'', エア、2013年1月24日閲覧。〕〔''水野浩''日本映画データベース、2013年1月24日閲覧。〕〔''水野浩''、日本映画情報システム、文化庁、2013年1月24日閲覧。〕〔''水野浩''東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年1月24日閲覧。〕〔''水野浩''KINENOTE、2013年1月24日閲覧。〕〔''水野浩''、日活データベース、日活、2013年1月24日閲覧。〕〔''水野浩''テレビドラマデータベース、2013年1月24日閲覧。〕。本名水野 浩一(みずの こういち)〔〔。青年期の舞台俳優から映画俳優に転向、老荘期まで脇役に徹したことで知られる〔〔。
== 人物・来歴 ==
1899年明治32年)4月23日兵庫県神戸市に生まれる〔〔。
旧制・兵庫県第二神戸中学校(通称神戸二中、現在の兵庫県立兵庫高等学校)を卒業し、演劇を志して、佐藤紅緑が1915年(大正4年)に起こした劇団「日本座」に参加、その後、喜劇や歌劇(オペラ)、剣劇等の劇団を渡り歩く〔〔。満30歳を迎える1929年(昭和4年)、京都の松竹下加茂撮影所に入社、舞台俳優から映画俳優に転向する〔〔。その後、月形龍之介月形プロダクション尾上菊太郎尾上菊太郎プロダクションに移籍したというが〔〔、出演記録は不明である〔〔。
1934年(昭和9年)ころまでに新興キネマに移籍、同年3月21日に公開された松田定次監督の『天保水滸伝』に「名主の朋友」役で出演した記録がある〔。1935年(昭和10年)には、同社が新設した新興キネマ東京撮影所(現在の東映東京撮影所)の現代劇にも出演したが、新興キネマ京都撮影所(現在の東映京都撮影所)に所属して、時代劇に多く出演した〔〔〔〔。1941年(昭和16年)には、日活京都撮影所に移籍したが、日活の製作部門は、翌1942年(昭和16年)1月10日に戦時統合で新興キネマ、大都映画と合併して大映を形成、それにあたって水野は「日活京都撮影所」が名称変更した大映京都撮影所(現存せず)に継続入社した〔〔〔〔。
第二次世界大戦終結後も引き続き同撮影所に所属したが、1948年(昭和23年)、当時大映が配給提携していた東横映画が製作した、佐々木康監督の『男を裁く女』、斎藤寅次郎監督の『のど自慢狂時代』に出演したのきっかけに、1949年(昭和24年)秋には東横映画に移籍した〔〔〔〔〔。同社は、1951年(昭和26年)4月1日、太泉映画東京映画配給と合併して東映を形成、水野はひきつづき東映京都撮影所に所属した〔〔〔〔〔。すでに50代になっており、老け役を中心に数多くのに出演、1960年代には、テレビ映画にも出演した〔〔。1965年(昭和40年)以降の出演歴、消息、いずれも不明である〔〔〔〔〔。没年不詳
『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社、1979年)の水野の項の執筆者・吉田智恵男は、晩年の老け役の水野を評して、「温厚な人柄がにじみ出て、ほのぼのとした暖かさをたたえたものが多く、親切な茶店の老爺、人情味のある牢番、忠実な下僕、人の好い大家など、心なごむ庶民像を生き生きと演じた」と締めくくっている〔。茶店の老爺役といえば、『満月三十石船』(監督丸根賛太郎、1952年)であり、牢番役といえば『天兵童子 第一編 波濤の若武者』(監督内出好吉、1955年)、『天兵童子 第二編 高松城の蜜使』(監督同、同年)、『天兵童子 完結編 日の丸初陣』(監督同、同年)の牢番与吾六といった作品、役どころである〔〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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