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松野クララ : ウィキペディア日本語版
松野クララ[まつの くらら]
松野 クララ(まつの クララ、独語名: Clara Louise Zitelmann〔''Tietermann''と表記された文献もある。日本ペスタロッチー・フレーベル学会編『ペスタロッチー・フレーベル事典』玉川大学出版部 2006年の「松野クララ」の項では旧姓をツィーデビルマンだとしている。また、名も以前は''Klara''表記が多かったが、近年の研究では''Clara''表記が主流である。〕〔旧姓の最初のアルファベットがZかTかということについては、2011年5月、津守眞本田和子、宮里暁美、小林恵子、立浪澄子を発起人とし、26人名の教育学者、保育学者、教育史研究者と3つの施設、機関を賛同者として松野クララ顕彰碑建設基金事務局が、顕彰碑建設のための寄付を募った文書で、使用されている欧文名を国内では定説となっているものとして尊重した。〕(クララ・チーテルマン)、1853年8月2日 - 1931年)は、明治時代幼児教育者。ベルリン生まれのドイツ人女性。
== 経歴 ==
フリードリヒ・フレーベルが創立した保母学校に学ぶ。1876年(明治9年)に来日し、ドイツで知り合った松野礀(まつの はざま、林学者、農商務省官吏)と結婚。日本人男性とドイツ人女性の国際結婚の第1号だった。翌年、娘の文(ふみ、Frida Fumi)を出産〔南雲元女「松野クララの人間的側面 : 研究ノート(その一) (人でつづる保育史)」幼児の教育75 ( 11 ) , pp.32 - 37 , 1976-11-01 , 日本幼稚園協会〕。
以後、日本における近代幼児教育の基盤整備に取り組むが、1908年(明治41年)5月4日、クララは夫の死去後にドイツに帰国し、1941年、ベルリンにおいて88歳で逝去した。なお、クララが離日した時期や、その事情は定かではない。また墓所も研究者の調査にもかかわらず不明のままである。〔南雲元女「松野クララの人間的側面 : 研究ノート(その二) (人でつづる保育史)」幼児の教育75 ( 12 ) , pp.12 - 17 , 1976-12-01 , 日本幼稚園協会〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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