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星野勘左衛門 : ウィキペディア日本語版
星野茂則[ほしのしげのり]

星野 茂則(ほしの しげのり)は、江戸時代前期の尾張藩士・弓術家。一般には星野勘左衛門の名で知られる。 三十三間堂通し矢で二度天下一の記録を樹立した。
== 生涯 ==
寛永19年(1642年)、星野則等の第三子として出生。生誕地は現在の愛知県西尾市吉良町とされ、同町宮迫字四反田には生誕地や旧里の碑がある。星野氏は熱田大宮司千秋氏の一族という〔尊卑分脈には千秋氏の一族に、「則」を通字とする星野氏がある。〕。茂則の祖父則勝は平岩親吉の家臣で、親吉没後は竹腰正信の家臣となった。父の則等は徳川義直に仕え、馬廻・大道奉行・広敷足軽頭などを務めた。茂則は、尾張藩士で日置流尾州竹林派長屋忠重に師事して弓術を学び、徳川光友の代に弓役に任じられた。
寛文2年(1662年5月28日、京都三十三間堂で大矢数に挑み、総矢数10,025本中通し矢6,666本を記録し、紀州藩吉見台右衛門の記録を破り天下一となった。この功で藩より弓頭に任じられ、知行高500石となった。
寛文8年、紀州藩葛西園右衛門が通し矢7,077本(総矢数9,000本)を達成し、記録更新される。
寛文9年(1669年5月2日に茂則は再度大矢数に挑み、総矢数10,542本中通し矢8,000本で葛西の記録を破り再度天下一となった。この時は5月1日の暮六つ(午後6時)から始め、翌日正午、残り約6時間となったところで余力を残して打ち切ったと伝わる。この記録達成により300石の加増を受けた。
元禄9年(1696年5月6日死去、享年55。子孫は尾張藩士として代々弓術の道統を継いだが、10代目の勘左衛門久則(明治39年〈1906年〉没)に嫡男がなく、富田常正〔(明治28年(1895年)6月6日 – 昭和35年(1960年)1月2日)弓道家(範士九段)。愛知県弓道連盟会長。〕が11代を継承した。星野家の資料は近年の火災で多くが失われてしまったという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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