翻訳と辞書
Words near each other
・ 張皇后 (劉禅)
・ 張皇后 (嘉靖帝)
・ 張皇后 (弘治帝)
・ 張皇后 (漢恵帝)
・ 張盛好
・ 張盛煥
・ 張県
・ 張真奴
・ 張真紀
・ 張睿家
張知本
・ 張碓
・ 張碓町
・ 張碓駅
・ 張磊
・ 張磊 (バレーボール)
・ 張礪
・ 張祐
・ 張祐栄
・ 張祐植


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

張知本 : ウィキペディア日本語版
張知本[ちょう ちほん]

張 知本(ちょう ちほん、)は、中華民国台湾)の革命家・政治家・法学者・教育者。中国同盟会以来の革命派人士で、中国国民党では反共右派の立場をとり(ただし西山会議派と見なせるかは議論があり得る。本記事「事跡」-「反共右派へ」参照)、反蒋介石の政治家の1人でもあった。懐九。号は竜甲。別名は礼恭。父は清末の理学者・医師である張特章
== 事跡 ==

=== 清末から第二革命まで ===
張知本は13歳で秀才となり、15歳で武昌両湖書院に入学した。このとき、黄興が同学となっている。17歳で優貢となり、朝考で二等を獲得した。その後、両湖書院に戻って1900年光緒26年)に卒業し、官費で日本へ留学している。日本ではまず弘文学院(宏文学院)で日本語を学び、次いで和仏法律学校(後の法政大学)で法学を学んだ。1905年、東京で孫文(孫中山)と知り合い、さらに同年に成立した中国同盟会に加入している。同年に和仏法律学校法政大学を卒業して帰国し、湖北広済中学堂堂長、武昌官立法政学堂監督などを歴任した。その一方で、密かに同盟会湖北支部評議長も務めている。
1911年光緒3年)10月、武昌起義辛亥革命)が勃発し湖北軍政府が成立すると、張知本は政事部副部長に任ぜられ、まもなく司法部部長に昇進した。張は司法制度整備に迅速に取り組み、12月には宋教仁を補佐して「鄂州臨時約法」を起草している。1912年民国元年)、南北和議により北京政府が成立するといったんは張も北京に向かったが、袁世凱を嫌って結局湖北に戻り、江漢大学校長となった。翌年2月、国民党党員として参議院議員に当選した。しかし同年7月、第二革命(二次革命)で革命派が敗北すると、江漢大学は革命派根拠地として閉鎖され、さらに張も革命派として学生を唆したと追及されたため、上海へ逃れている。1914年(民国3年)、湖北に戻り、私立中華大学教授となっている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「張知本」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.