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小幡重定 : ウィキペディア日本語版
小幡憲重[おばた のりしげ]
小幡 憲重(おばた のりしげ、永正14年(1517年?) - 没年不詳)は、戦国時代の武将。上野国甘楽郡小幡郷の国衆小幡顕高の子。小幡信貞(信実)の父。別名重貞、重定ともされる。信竜斎全賢。妻は長野業正の娘(妹とも)。子に信真信重がいる〔黒田(1987)、p.19〕。娘は甲斐武田氏の親族衆・武田信豊の妻〔黒田(1987)、p.19〕。憲重の孫である信氏の室を武田信豊娘とする系図もある〔黒田(1987)、p.19〕。尾張守。国峯城城主。
== 略歴 ==
小幡氏は上野国衆で関東管領山内上杉家に仕えていたが、山内上杉家が相模国の後北条氏との抗争で衰退すると長野氏との関係が悪化し、さらに一族の内紛が勃発する。憲重は天文17年(1548年)10月に山内上杉氏から離反し、後北条氏に通じる。
山内上杉氏は天文21年3月に後北条氏の侵攻により本拠平井城・上野から没落し越後長尾氏を頼る。憲重はこうした状況のなかで後北条氏に従属していたが、天文18年(1549年)頃には甲斐国の武田氏に帰属先を変えたとされ、『高白斎記』に拠れば天文22年(1552年)には嫡子信実を伴い信濃塩田城に在陣する武田晴信(信玄)と対面している。憲重は後北条氏・武田氏に両属する立場であったと考えられている〔黒田(2011)、p.30/(2013)、p.186〕。天文23年(1554年)からは憲重の発給文書が見られる。
その後、武田氏は後北条氏は同盟してそれぞれ北信と北関東において上杉氏と対決するようになり、こうした中で永禄3年(1560年)8月末には上杉憲政を擁した長尾景虎(上杉謙信)が本格的な関東侵攻を行い、憲重は本拠国峰城を攻略される。翌永禄4年以降に武田氏は西上野侵攻を行い、憲重も反乱した一族を追放し国峰城を奪還し、旧領復帰に成功した。武田家中における西上野先方衆の一人として武田氏に仕え、川中島の戦いにも参戦した。
最後は1575年長篠の戦いに参加し戦死したとされることが多いが、はっきりとしたことは分かっていない〔1560年頃出家し、1567年に息子に家督を譲り隠居、1579年まで資料上は散見できる(小幡文書)〕。
ただし、以上の事績は子の信貞のもので憲重自身はそれ以前に没していたとも、憲重と重貞とは別人であり、憲重と信貞は祖父と孫の関係とも言われる。その一方で、憲定は山内上杉家に仕えていた当時の名(“憲”は上杉憲政の一字)で、同家を離反後に決別を示すために重定に改名したとも考えられる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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