|
塚本 博睦(つかもと ひろよし、1918年10月14日 - 2009年8月20日)は広島県呉市出身のプロ野球選手(外野手。主に中堅手)・野球指導者・監督。 == 来歴・人物 == 1934年、旧制呉港中学校2年の時、第20回夏甲子園大会出場。藤村富美男、田川豊、原一朗らとセンターで下位を打ち全国制覇に貢献。翌1935年夏はセンターで主に1番を打ち藤村、田川、柚木進らとベスト8まで進む。1936年年末、先輩藤村に呼ばれて立教大学を中退。大阪タイガースに奈良友夫と同日入団するが、強力メンバーを揃えた阪神では控えにまわり1938年末、召集され1941年まで北支(北部中国)へ3年間従軍。 1942年除隊し阪神復帰。復帰後、戦時下で選手層の薄くなったチームで終戦までの3年間、1番センターのレギュラーを獲得。戦時中最後の年1944年の優勝に貢献。走攻守の三拍子が揃い、また初球から積極的に打ってくる気性の選手といわれた。洒落者と言われ、戦前のタイガースでは平桝敏男と二人だけ化粧水やクリームを使い、幾種類も持ち歩いて日に5、6回顔を洗って何か塗っていた。このためいつも顔がツルツルと光っていた。戦後1946年6月から復帰。しかし呉昌征にポジションを奪われ出場試合数が激減。 1947年は、ライトのレギュラーだった富樫淳が怪我で抜けた後、ライトのレギュラーを奪い2番と3番を打ち打率3割をマーク、打撃ベストテン4位となり阪神の戦後初優勝に大きく貢献した。金銭条件の不満から、同年オフに10年選手の自由契約によりトレードを希望し阪急ブレーブスに移籍〔チームメイトだった本堂保次と並んで、この年に制定された10年選手制度の最初の行使者である。〕。移籍した1948年は39盗塁をマークし盗塁数2位。1949年に東急フライヤーズに移籍し、同年11月19日に1試合6得点の日本プロ野球記録をマーク(過去4人)。その後、一年ごとに西日本パイレーツ、チーム合併で西鉄ライオンズ・広島カープと渡り歩いた。 2リーグ制となった1950年、西日本に引き抜かれ2番を打つ。迎えた6月28日、対読売ジャイアンツ戦で、チームは藤本英雄に日本プロ野球史上初の完全試合を喫した。藤本は中等野球時代から山陽大会などでよく対戦があり、塚本は打ち込んでいたが抑えられた。但し初回のレフトライナーはこの試合で一番鋭い当たりだったと言われる。1952年に現役引退。その後、藤井金属の監督になる。1960年、古巣・阪神の二軍監督兼二軍打撃コーチになり、翌1961年まで務めた。 2009年8月20日没〔「阪神タイガース栄光の75年史」の写真名鑑より〕。享年90。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「塚本博睦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|