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藤村富美男 : ミニ英和和英辞書
藤村富美男[ふじむら ふみお]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [むら]
 【名詞】 1. village 
: [とみ]
 【名詞】 1. wealth 2. fortune 
: [び]
  1. (n,n-suf) beauty 
美男 : [びなん]
 (n) handsome man
: [おとこ]
 【名詞】 1. man 

藤村富美男 : ウィキペディア日本語版
藤村富美男[ふじむら ふみお]

藤村 富美男(ふじむら ふみお、1916年8月14日 - 1992年5月28日)は、広島県呉市山手町出身〔南萬満『真虎伝』新評論、1996年、P11。〕のプロ野球選手監督解説者
日本プロ野球を代表する伝説の強打者であり、大阪タイガース(現:阪神タイガース)の黎明期を支え、戦前から1950年代までのプロ野球創成期を代表するスター選手〔フォトヒストリー 〕〔NHKアーカイブス NHK映像ファイル あの人に会いたい 〕〔『プロ野球最強列伝~沢村栄治からダルビッシュまで~』、水道橋野球倶楽部、双葉社、2008年、P138-139〕。初代「ミスタータイガース」。チームメイトからの愛称は「フジさん」〔『真虎伝』や関三穂『プロ野球史再発掘』(ベースボール・マガジン社)に収録された証言や座談会での発言に見られる。〕。
藤村隆男は実弟で、大阪タイガースでは共にプレーした。
== 来歴 ==

=== プロ入り前 ===
四男四女の8人兄弟の7番目(三男)として生まれる。父親は呉海軍工廠で工員を務め〔『真虎伝』P12 - 13。〕、兄も同工廠野球チームの花形選手だった〔asahi.com:ニッポン人脈記「〈甲子園アルバム3〉「藤村」コール3代7人 、『ニッポン人脈記 奇跡の甲子園』、朝日新聞社、2008年、P29-35〕。鶴岡一人と同学年で呉市のすぐ隣の小学校に入学し、野球を始める〔十乗院潤一『ミスター・タイガース―藤村富美男伝』データハウス、1992年、P17,163。〕〔鶴岡の通った五番町小学校と藤村の通った二河小学校は、現在は統合されて呉中央小学校となっている(呉市立呉中央小学校ホームページ )。〕。また、南海ホークスのエースだった柚木進は家が近所で、進の兄・柚木俊治1934年夏の甲子園で主将として藤村と共に優勝メンバーとなっている。同学年の鶴岡一人も近所にいた。藤村は尋常小学校卒業後、高等小学校で2年学び、1931年に大正中学校(5年制)に入学した。
、2年生(16歳)で早くもエースとなり県内のライバル、鶴岡の広島商業濃人渉門前眞佐人白石勝巳らのいた広陵中学を退け、春夏の甲子園に6度出場〔大道文『プロ野球 豪傑伝(下)』ベースボール・マガジン社、1986年、P12-20〕。明石中学楠本保京都商業沢村栄治中京商業吉田正男県立岐阜商業加藤春雄ら中等野球史に残る名投手と名勝負を繰り広げ、甲子園の申し子と呼ばれた。藤村登板の試合では外野スタンドで、空き箱の上に立って試合を見る最後列の観客のために「空箱屋」が大繁盛するほどの人気沸騰ぶりだったという〔甲子園「名投手」「名選手」百選 〕。
中学3年、1933年春の甲子園では、沢村栄治をエースに擁する京都商に敗退。次回に雪辱を期すが、3度目の甲子園出場だった1933年夏の甲子園では、対戦する前に京都商が敗退。準々決勝で3連覇を狙う中京商業と対戦し、完封負けを喫した(中京商業は続く準決勝で中京商対明石中延長25回を勝ち抜き、3連覇を達成)。
藤村のワンマンチームと思われがちな大正中学だが、呉港中学に校名変更した翌1934年夏の甲子園では、田川豊塚本博睦橋本正吾保手浜明原一朗らを揃え、高い総合力で全国の強豪をまったく寄せ付けず圧勝し全国制覇を果たした〔〔〔甲子園歴史館 スタッフブログ | ミスタータイガースと巨大な塔 〕。決勝では藤村が熊本工業を2安打14奪三振で完封、川上哲治も3連続三振に捻った〔SportsClick:この人にこの技あり 第13回:藤村富美男の“物干し竿バット”打撃 〕。夏の甲子園決勝での14奪三振は最多記録〔スポーツナビ 藤浪78年ぶり決勝最多14Kで春夏連覇! 大阪桐蔭、春夏連覇!藤浪8球団1位ある(2/2ページ) 大阪桐蔭・藤浪、春より凄いV!14Kで2試合連続2安打完封…夏の甲子園 、スポーツニッポン、2012年8月24日]〕。川上は「ヒゲをはやし、一人だけ大人が混ざっているようだった」と述懐する〔〔。藤村は、「川上がいたなんて、さっぱり覚えがない」と言っている。以後、川上とは「終生のライバル」となる〔ただし、藤村自身は自らのライバルは鶴岡一人ひとりだけと語っていた(『ミスタータイガース 藤村富美男伝』P163)。〕。深紅の大優勝旗を手に凱旋した呉港中ナインを歓迎する呉市民の熱狂ぶりは、連合艦隊入港以上のものだったという。藤村が駅で優勝旗を掲げようとした瞬間、旗の柄が折れてしまったという逸話も残る。
1935年の夏の甲子園では、対飯田商業戦で、1試合19奪三振を記録。この記録は、1925年の夏の甲子園東山中森田勇が対北海中戦で達成した記録に並ぶものであり、2012年の夏の甲子園で、神奈川・桐光学園松井裕樹が対今治西戦で1試合22奪三振で記録を更新するまで、実に77年間もの間、夏の甲子園の1試合最多奪三振記録であった〔ちなみに、この記録更新は、春夏通じての1試合最多奪三振記録、1963年の春の甲子園で、PL学園戸田善紀が記録した1試合21奪三振を抜いて、春夏通じて1試合最多奪三振記録となった。〕。
藤村が2年生の16歳から5年生の19歳まで、4年間一人で投げ抜いて奪った三振は甲子園で12試合通算111個である。藤村が呉港中学を卒業したは、職業野球連盟が結成された年であった。設立されたばかりの大阪タイガースは、甲子園最大のスター選手であった藤村を熱心に勧誘し、前年11月11日に契約を結んで投手として入団させた。背番号10
藤村自身及び学校側は当初、法政大学進学の意向を固めており、阪神に先立ち勧誘に動いた名古屋金鯱軍は藤村の父と兄に固辞されていた。その後訪れた大阪タイガース支配人の中川政人が藤村の父親と兄を口説いて了解を取り付けた上で、何も知らぬ藤村を呼んで判子を渡し、契約書に押させて契約を成立させた〔松木謙治郎『タイガースの生いたち』P59 - 60。〕。藤村の反対にあって契約が不成立となるのを恐れた藤村の父兄と中川の判断でこのような手段を取ったが、藤村は法政大に進学できないのを残念がったという(なお、その後藤村の長男・哲也と次男・雅美が法政大に入り、雅美は主将を務めチーム初の4連覇に貢献した)。父と兄がプロ入り賛成に傾いた要因は、当時職についていなかった藤村の次兄をマネージャーに迎えるという条件を出したことであった〔。学校側と藤村家の関係は険悪となり、藤村は野球部の出入りを禁じられた。六大学野球全盛の当時において、創設されたばかりでリーグ戦も開催されていなかったプロ野球の立場は低く、藤村のように有力な旧制中学生がプロ球団と契約・入団する事は、人生を誤るようなものと思われていたためである〔『プロ野球 豪傑伝(下)』、P18-24〕。1936年2月、タイガース入団のため、次兄と一緒に呉駅を出発する藤村を見送ったのは家族とわずかな友人だけ。全国優勝の後の駅前の賑やかな出迎え風景は嘘のようだった〔阿部牧郎『素晴らしきプロ野球』中央公論新社、1994年、P135〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「藤村富美男」の詳細全文を読む




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