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土田秀久 : ウィキペディア日本語版
土田秀久[どた ひでひさ]
土田 秀久(どた ひでひさ、生没年不詳)は、室町時代後期から戦国時代初期の武士土田秀定の子。妹にいぬゐ(織田信定室)がいる。子に長男・土田泰久、次男・土田政久生駒親重)、三男・土田久通、長女・土田御前織田信秀・室)がいる。
==経歴==
美濃国可児郡土田郷の土田屋敷で生まれる。母は、明智氏(美濃国可児郡明智長山城主)の娘〔【続郡書類従所収系図】では明智頼秀の娘、【明智一族宮城家相伝系図】では明智頼定の娘に該当する。〕で、秀久といぬゐ(織田信定・室)を産んだとされる。妹は、清洲三奉行織田弾正忠家の織田信定(織田信長の祖父)に嫁いだ〔織田信定の正室は織田良頼の娘・いぬゐ(含笑院)の為、継室か側室の可能性がある。【美濃土田氏の出自と隆昌】〕と伝わる〔織田信定は、尾張国下四郡を治める織田大和守家の家臣だが、上四郡の丹羽郡犬山付近にも影響力があったとされる。〕。
父と同様に親類筋である土岐氏庶流の明智氏〔【続郡書類従所収系図】では明智頼尚・頼典、【明智一族宮城家相伝系図】では明智頼弘・光継、【系図簒要】では明智光継に該当する。〕に仕え、美濃守護の土岐氏〔土岐成頼・政房とされる。【美濃土田氏の出自と隆昌】〕や尾張守護の斯波義寛にも従った。
延徳3年(1491年)には、尾張守護の斯波義寛に従い近江国へ六角征伐長享・延徳の乱)〔美濃守護の土岐成頼は、足利義視・義材の父子を庇護していた為、9代将軍・足利義尚の親征が土岐氏に及ぶのを危惧し、近江へ出兵せずに美濃で挙兵して幕府軍を威圧した。〕に、尾張勢の織田氏前野氏生駒氏〔生駒家広・豊政父子とされる。【美濃土田氏の出自と隆昌】〕と共に秀定・秀久父子も加わり参陣した。〔主筋の土岐氏や明智氏が六角高頼への足利義尚の親征に従わなかった為、縁戚関係にある生駒氏の主君である織田氏に従ったとされる。【美濃土田氏の出自と隆昌】〕
当時の土田氏は、美濃の豪族なので主筋は明智氏や土岐氏に当たるが、所領が美濃国可児郡土田郷で尾張国と隣接していた為、縁戚関係のある織田氏や生駒氏に従って出兵した土田氏の複雑な実状が垣間見える。
秀久の頃には、美濃土田で3万石の石高があったとされ、土田村だけでなく周辺一帯を支配していた事が窺える。〔【美濃明細記】に3万石と記録がある。〕
秀久の室は、生駒家広の娘(生駒氏)〔法号を『祖球大姉』と云い、富春寺(富春庵)を創建した事から富春庵とも言われる【美濃土田氏の出自と隆昌】〕で泰久・政久・久通・土田氏御前(織田信秀・室)を産んだとされるが、秀久と家広が対立した事が原因で離縁する。〔土田秀久と舅の生駒家広との対立は、六角征伐に伴う尾張守護の斯波氏や守護代の織田氏への臣従に関してという説がある。【美濃土田氏の出自と隆昌】〕
大永享禄年間(1521年1532年)には秀久の記録がなく、天文2年(1533年)に生駒氏が土田に富春庵(現在の冨春寺)を創建〔『富春寺』とも表記される。(所在地:岐阜県可児市土田2190)〕している事から、それ以前に亡くなったと思われる。〔【美濃土田氏の出自と隆昌】に享禄年間と記載がある。〕
生駒氏が秀久と離縁後に、生家の小折生駒家で産んだのが土田久通(生駒久道)と云われ、〔生駒氏が小折生駒家で産んだのは、土田政久(生駒親重)とも伝わる。〕後に久通は小折長桜に居を構えた。〔母方の生駒氏領地の小折長桜に移住した為、生駒姓を名乗ったという説がある。【美濃土田氏の出自と隆昌】〕
土田城があった土田山の山麓にある渡り田の地には、室町時代の宝篋印塔五輪塔が数基残っており、土田秀定・秀久はじめ土田一族の墓とされる。地元では、土田御前の生まれた屋敷跡(土田屋敷)とも伝承されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「土田秀久」の詳細全文を読む



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