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土屋貞綱
土屋 貞綱(つちや さだつな)は、戦国時代の武将。駿河国の今川氏、後に甲斐武田氏の家臣で海賊衆。『甲陽軍鑑』によれば駿河の岡部氏の一族で、通称は忠兵衛〔柴(2015)、p.501〕。後に姓を土屋に改める。豊前守。貞綱は「土屋備前守直規」と称したとする記録もあるが、これは誤りであることが指摘される〔平山(2008)、p.330〕。 == 略歴 == 当初は伊丹康直と共に水軍を率いて今川氏に仕えた。「武田法性院信玄公御代惣人数事」『甲陽軍鑑』に拠れば船12艘・同心50騎を指揮していたという〔〔。ただし、安宅船は所有していない〔。永禄11年(1568年)からの武田氏の駿河侵攻により今川氏が逃亡すると武田氏に降る。武田信玄は北条方の伊豆水軍から間宮武兵衛、造酒丞兄弟を引き抜き、貞綱を武田の水軍大将に据えた。『甲陽軍鑑』によれば、信玄は永禄12年(1569年)に貞綱に対して土屋姓を与えて土屋忠兵衛と名乗らせ、備前守の受領と与えたとされるが、これは確認されない〔〔。 永禄13年(1570年)2月には岡部備前守と土屋備前守が併用されており、この頃に土屋姓に改姓したと考えられている。同年2月には新規に築城された駿河の清水城(静岡市清水区本町)に入り、水軍を編成する〔。貞綱は伊勢から向井正綱と小浜景隆を招聘した。駿河・遠江において所領を持ち、元亀3年(1572年)時点で遠江国御前崎(静岡県御前崎市)において地頭となっている〔。 武田家では譜代家老・金丸虎義の次男である昌続(昌次)が土屋氏の名跡を継承しており、昌続は永禄11年(1568年)頃に土屋姓に改姓している〔平山(2008)、p,331〕。貞綱には実子がなく、『甲陽軍鑑』に拠れば昌続実弟の惣三(昌恒)が貞綱の養子になったという〔。貞綱と昌続は天正3年(1575年)5月21日に長篠の戦いで共に討死したため、昌恒が昌続・貞綱双方の家臣団を継承している〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土屋貞綱」の詳細全文を読む
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