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勝田守一 : ウィキペディア日本語版
勝田守一[かつた しゅいち]
勝田 守一(かつた しゅいち、1908年11月10日 - 1969年7月30日)は、日本教育学者。東京大学教育学部の同僚であった宮原誠一社会教育学)、宗像誠也と並んで「3M(スリー・エム)」と称される。
==人物==
東京市に生まれる。ロシア研究者・横浜国立大学教授の勝田昌二()は弟〔『勝田守一著作集第七巻月報、勝田昌二「ライス・カレー」〕。
1926年東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。(宗像誠也とは同級生)
第一高等学校 (旧制)を経て、1932年京都帝国大学文学部哲学科卒業。
京大卒業後、松本高等学校 (旧制)教諭、学習院大学教授などを経て、1951年から東京大学教授。日本教職員組合教研集会の講師を、その発足当初から長く務め、教育科学研究会(略称教科研)の中心メンバーとして活躍、その機関誌『教育』の編集長の任にもあたった。また、通称の「もりかず」から、東大教育学部の同僚であった宮原誠一宗像誠也と並んで、戦後教育学界に大きな影響を与えたことから「3M(スリー・エム)」と称された。
シェリングドイツ観念論の研究からスタートし、その後、教育思想研究に転向した。カリキュラムは、日常経験を媒介とした科学の再構成であるべきと主張、1950年代以降の教育論争に、教科研の立場から積極的に発言、教育社会学者の清水義弘教育科学論争)、教育学者梅根悟コア・カリキュラム論争)らと活発な議論を交わす。それを通じて形成された教育思想は、子どもの全面的な発達の保証としての教育の定位、すなわち後の「国民の教育権」論へと結実する。「国民の教育権」論は、東大時代の門下堀尾輝久へと継承された。1969年病歿。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「勝田守一」の詳細全文を読む



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