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ユーグ大公 : ウィキペディア日本語版
ユーグ大公[ゆーぐたいこう]
ユーグ大公(ユーグたいこう、898年頃 - 956年6月16日)は、カロリング朝末期に勢力を得たロベール家の人物。父は西フランク王ロベール1世。伯父がその先々代の王のウード。大公はパリ伯ネウストリア侯、フランス公・オセール公・各地の修道院長などの地位を占めてカロリング家の王を操り、長男ユーグ・カペーカペー朝への道を開いた。
フランス語ではHugues le Grand(ユーグ・ル・グラン)、英語ではHugh the Great(ヒュー・ザ・グレート)。
== 生涯 ==
父ロベール1世と母ヴェルマンドワ伯エルベール1世の娘ベアトリス(Béatrice de Vermandois)との間にパリで生まれた。
ロベール1世が923年、諸侯に廃位されたシャルル3世を討って没した戦いでは、奮闘して勝利を得た。
936年義兄でボゾン家ラウール王が没し、大公はロワール川セーヌ川とに挟まれる地域の殆どの領主と修道院長職を占め〔シャルル3世が911年、侵攻のノルマン人との和睦に与えたノルマンディーは含まない。〕、ネウストリア第一の権力者になった。自ら王位を継ぐことも可能ではあったが、大公はシャルル3世に懲りて嫌がる諸侯を説き、イングランドのウェセックスに亡命していたシャルルの遺児ルイを、新王に迎えた〔ルイは大公の2番目の妻エドヒルドの甥に当たった。〕。ボゾン家による王位継承を避けたためと、解されている。
しかし、その年ザクセンのヘートヴィヒ(ハインリヒ1世リンゲルハイムのマティルデとの娘)と結婚してから、ルイ4世と争い始め、大公はルイと対立する神聖ローマ皇帝オットー大帝に臣従の礼をとって、対抗した。
ルイ4世が945年にランスでノルマン人と戦って捕らわれたとき、ユーグはルイをブロワ公ティボー(Thibaud de Blois)に預けてから、オットー大帝の許可を得て釈放し、交換にピカルディランを得た。ルイ4世との悶着は953年までくすぶった。
954年にルイ4世が死ぬと、大公はルイの息子のロテールを王位に推し、代償にブルゴーニュアキテーヌとを得た。
以降、若いロテールを後見して、956年6月の16日か17日にエソンヌのドゥールダン(Dourdan)で没した。
長男のユーグ・カペーがフランスの王位に就きカペー朝を開いたのは、987年である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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