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ベルムード2世 : ウィキペディア日本語版
ベルムード2世[べるむーど2せい]

ベルムード2世 (Bermudo II de León、Vermudo IIとも。948年から953年までの間に誕生 - 999年)は、レオン王。『痛風王』(el Gotoso)と呼ばれた。
==生涯==
オルドーニョ3世の子として生まれた。982年、ラミロ3世に対抗するガリシアポルトガル貴族に推されてベルムードは自ら王位についた。この王位簒奪は、950年代に始まった王位継承危機の延長として見られている。簒奪の時のベルムード派は、ゴンサロ・メネンデスが束ね、ラミロ3世派はロドリーゴ・ベラスケスが率いていた。982年、ベルムードはサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂戴冠式を行った。彼の戴冠には2つの教会内の派閥対立がからんでいた。当時のサンティアゴ司教はベラスケスの子ペラーヨであり、モンドニェード司教アリアス・ペラアスとともにそれぞれセラノーバやサン・マルティン・デ・ラリンの修道院へ追放されていた。
地方からのベルムードに対する支持は限られており、彼はコルドバカリフからの保護を必要としていた。彼の治世の当初、カスティーリャははるかに不安定であった。そしてアルマンソール率いるコルドバ太守軍は同盟軍ではなく、征服軍としてやってきた〔J. M. Ruiz Asencio (1968), "Campañas de Almanzor contra el reino de León (981–986)", ''Anuario de estudios medievales'', 5, 31–64.〕。991年から992年、ベルムードはレオンの上級貴族の反乱によって国を追放された。しかし彼はすぐに復活して、反乱派と和解した〔Jaime de Salazar y Acha, "El conde Fernando Peláez, un rebelde leonés del siglo XI", ''Anuario de estudios medievales'', 19 (1989), 89.〕。
ベルムードは最終的にイスラム教徒からサモーラを奪還した。しかし987年までイスラム教徒を完全に追い出すことはできなかった。このことがアルマンソールの報復のきっかけとなり、彼はコインブラのまちを破壊した。コインブラを包囲した後、レオンが略奪され、ベルムードはサモーラへ逃げた。イスラム軍は侵略を続け、996年にアストルガを攻略、997年にはサンティアゴを襲った。
999年、ベルムードはわずらっていた痛風に苦しむようになり、乗馬も不可能になった。イベリア半島北西部のキリスト教徒の軍事指導者である彼は、その後担架に乗って旅をした。彼は999年にビリャヌエバ・デル・ビエルソで死んだ。最初カラセード修道院に埋葬されたが、後にレオン大聖堂に移された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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