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ベリア・マゴフィン : ウィキペディア日本語版
ベリア・マゴフィン

ベリア・マゴフィン(、1815年4月18日 - 1885年2月28日)は、19世紀アメリカ合衆国政治家弁護士であり、1859年から1862年まで第21代ケンタッキー州知事を務めた。その在任時期は南北戦争初期にあたり、個人的には州がアメリカ合衆国から脱退する権利を含め、州の権限に固執しており、アメリカ連合国の側に同調的だった。それでもケンタッキー州議会が戦争に対しては中立の立場を採用したとき、マゴフィンはそれに従い、北軍および南軍の政府から援助の呼びかけがあっても拒否した。
1861年6月に特別選挙が行われ、連邦主義者がケンタッキー州選出アメリカ合衆国下院議員10人の内9人を占め、またケンタッキー州議会でも両院の3分の2多数を占めた。マゴフィンが中立政策を厳格に固執したにも拘わらず、連邦主義者多数の議会はマゴフィンを信用せず、繰り返しその拒否権を無効にした。この敵対的な議会のために指導力を発揮できなかったマゴフィンは、後継者を自分で選ぶことを条件に1862年に辞任に同意した。副知事に選ばれていたリン・ボイドは在任中の1859年に死亡していた。マゴフィンは上院議長代行のジョン・F・フィスクが州知事を引き継ぐことを拒否した。その結果フィスクが辞任し、ケンタッキー州上院はマゴフィンが選択したジェイムズ・F・ロビンソンを議長に選出した。その後でマゴフィンが辞任し、ロビンソンが州知事に昇格し、フィスクは上院議長代行に再選された。
南北戦争の終戦後、北軍勝利の受容と、アメリカ合衆国憲法修正第13条の成立を奨励した。マゴフィンは1885年2月28日に死んだ。1860年に設立されたケンタッキー州マゴフィン郡はマゴフィンの栄誉を称えて名付けられた。
== 初期の経歴 ==
ベリア・マゴフィンは1815年4月18日に、ケンタッキー州ハロズバーグで生まれた〔"Kentucky Governor Beriah Magoffin"〕。父は同名のベリア・マゴフィン、母はジェイン(旧姓マカフィ)だった〔Harrison in ''The Kentucky Encyclopedia'', p. 603〕。父はアイルランドダウン州からの移民であり、母はケンタッキー州初期の著名開拓者サミュエル・マカフィの娘だった〔Powell, p. 52〕。
マゴフィンはハロズバーグの公立学校で初等教育を受けた〔。1835年、ダンビルのセンター・カレッジを卒業し、1838年にはレキシントンのトランシルベニア大学から法学士の学位を得た〔。その後、ミシシッピ州ジャクソンに転居し、法律実務を始めた〔。1838年から1839年、ミシシッピ州上院の読会係を務めた〔。
1839年、マゴフィンは病気になってケンタッキー州に戻った〔。ハロズバーグで法律実務を続け、1840年にはロバート・P・レッチャー州知事からハロズバーグの警察裁判所判事に指名された〔。1840年4月21日、アンナ・ネルソン・シェルビーと結婚した〔。アンナはケンタッキー州初代と第5代の知事アイザック・シェルビーの孫娘だった〔。夫妻の子供は10人が成人になるまで成長した〔。
マゴフィンは民主党で活動を始め、1844年、1848年、1852年、1856年に大統領選挙人となり、1848年、1856年、1860年、1872年には民主党全国大会の代議員になった〔。1850年にはケンタッキー州上院議員を1期務めたが、党による1851年のアメリカ合衆国下院議員候補指名は辞退した〔。1855年、副知事の民主党公認候補となり、州知事候補のビバリー・L・クラークと共に戦ったが、ノウ・ナッシングチャールズ・S・モアヘッドに敗れた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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