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フランソワ・ド・ロレーヌ : ウィキペディア日本語版
フランソワ (ギーズ公)

フランソワ・ド・ロレーヌ(Francois de Lorraine)またはフランソワ(1世)・ド・ギーズ(François (Ier) de Guise, 1519年2月17日 - 1563年2月24日)は、フランスの貴族・軍人でギーズ公、ジョワンヴィル公、オマール公。渾名はバラフレ(balafré:傷跡のあるという意味)であった。ユグノー戦争で活躍したが、プロテスタントに暗殺された。ギーズ公クロードとヴァンドーム伯フランソワの娘アントワネットの長男としてバル=ル=デュックで生まれた。スコットランドジェームズ5世マリーは姉、ロレーヌ枢機卿シャルル、オマール公クロード2世、エルブフ侯ルネ2世は弟。
1545年ブローニュ包囲に参戦して負傷し、渾名の元となった。1552年には神聖ローマ皇帝カール5世によるメス包囲で防衛に成功するが、1554年のレンティの戦いで帝国軍に打ち負かされた。順調な出世を遂げるうち、1557年にはローマ教皇パウルス4世の援助のため軍を率いてイタリアへ遠征した。しかし、すぐにフランスに呼び戻され、1558年1月には、200年以上にわたってイングランドに支配されてきたカレーの奪還にも成功した。
1559年7月、フランソワ2世が即位してから約1年が絶頂期であった。王妃は姪のスコットランド女王メアリー・ステュアート(姉マリーとスコットランド王ジェームズ5世の一人娘)であるため、ギーズ家ヴァロワ家と密接につながったのである。外戚として弟のロレーヌ枢機卿と共に御しやすいフランソワ2世を動かして実権を握ったが、1560年12月にフランソワ2世は病死、数ヶ月もしないうちに彼の影響力は失せ、弟のシャルル9世が即位すると私領に引退した。
1562年、ユグノー戦争がおこると、摂政カトリーヌ・ド・メディシスは当初ユグノーに好意的であったため、カトリック派の劣勢を挽回するためフランソワは旧敵アンヌ・ド・モンモランシージャック・ド・サンタンドレらと手を組み、カトリック派の首領として転戦する。スペインオーストリアにすり寄る彼らの行動に危機感を抱いたユグノーらにより、1563年2月18日にフランソワは襲撃されて重傷を負い、6日後にコルネー城で死亡した(黒幕はプロテスタントの首領コリニー提督とされている)。
==子女==
1548年4月29日サン・ジェルマン=アン=レーアンナ・デステエステ家フェラーラエルコレ2世・デステルネ・ド・フランスの娘)と結婚。7子をもうけた。
*アンリ(1550年 - 1588年) - ギーズ公
*カトリーヌ(1552年 - 1596年) - ブルボン家の支族モンパンシエ公ルイ2世妃
*シャルル(1554年 - 1611年) - マイエンヌ
*ルイ(1555年 - 1588年) - ランス大司教、ロレーヌ枢機卿
*アントワーヌ(1557年 - 1560年)
*フランソワ(1559年 - 1573年)
*マクシミリアン(1562年 - 1567年)





抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Francis, Duke of Guise 」があります。



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