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ビル・シュネー : ウィキペディア日本語版
ビル・シュネー

ビル・シュネー(Bill Schnee、1947年7月4日 - )は、アメリカ合衆国音楽プロデューサーレコーディング・エンジニア
==経歴==
アリゾナ州フェニックス市出身。8歳からキーボードを習い始める。9歳でトランペットを学び、11歳の時にサックスに転向。
13歳で家族とともにサンフランシスコ、16歳でロサンゼルスに移住。ロサンゼルスでの高校生活時代にキーボーディストとしてバンド活動に傾倒し始める。この時、バンドのプロデューサーはシュネーがミキシングしたバンドサウンドを聞いて彼の才能を見出し、プロのレコーディング技術を学ぶように勧めた。シュネーはその後、カリフォルニア理工大学(現・カリフォルニア理工州立大学)1965年1968年)、ロヨラ法科大学1969年1970年)在学中も作曲演奏活動を続けていたが、次第に自分が本当にやりたいことはレコーディングエンジニアであることを確信するようになった。
1969年、スミスの「A Group Called Smith」でエンジニアとしてデビュー。その後、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズリンゴ・スター等のプロデュースやエンジニアリングを手掛けていたが、シュネーの名が大きく知られるようになったのは1975年に発表されたテルマ・ヒューストンの「I've Got the Music in Me」である。その後、ミッシェル・ポルナレフTOTOボズ・スキャッグススティーリー・ダンヒューイ・ルイス&ザ・ニュースシカゴオリビア・ニュートン・ジョンホイットニー・ヒューストン、など多数の大物アーティストの音楽作品にてプロデューサー、エンジニアとして活躍している。
日本では、オフコース小田和正のレコーディング・エンジニアとして知られている。「We are」から「as close as possible」までのオフコースのアルバムおよび小田の多くのアルバムの制作にかかわっている。小田とは同じ1947年生まれで同い年ということもあり、音楽の枠を超えて深い親交がある。
1981年ノース・ハリウッドシュネー・スタジオを設立。極めて優秀なレコーディング設備で知られており、ドン・ヘンリーアニタ・ベイカーアーロン・ネヴィルシェールナタリー・コールテディ・ペンダーグラスなど多数のアーティストのレコーディングに使われている。小田和正も初のソロアルバム「K.ODA」から「MY HOME TOWN」まではシュネー・スタジオをレコーディングの拠点としていた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ビル・シュネー」の詳細全文を読む



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