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ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ : ミニ英和和英辞書
ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ : ウィキペディア日本語版
ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ[ちょうおん]
ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ (Blood, Sweat & Tears、BS&T)は、アメリカで1960年代後半から1970年代にかけて活躍したロックバンドである。バンド名は、ジョニー・キャッシュの曲名をそのまま拝借したもの〔ジョニー・キャッシュのアルバム'Blood, Sweat and Tears'に基づいていて、これは1940年にドイツとの戦いを鼓舞するウィンストン・チャーチル首相の名言''Blood, toil, tears, and sweat''(「血と苦労と涙と汗しか与えることができません」)に基づいた命名である。〕。
== 来歴 ==
1967年初頭にアル・クーパーボーカルキーボード)は窮屈になったブルース・プロジェクトを辞し、1967年6月モントレー・ポップ・フェスティバルに出演。そこで盟友マイク・ブルームフィールドらが結成したエレクトリック・フラッグなどに感激し、イギリスへ渡航し新たなバンドを結成する計画を練り、その資金集めに組んだセッションバンドが始まりである。計画をボビー・コロンビーに相談しメンバー募集をほぼ一任し追ってブルース・プロジェクトを抜けたスティーブ・カッツを加えクーパーの名でいくつかの音楽番組とコンサートで終了する予定だったが経費増大で渡航費用には届かなかった。そこでカッツはこのセッションバンドから新バンドを結成しクーパーの持つ構想実現を進めることを助言する。クーパーはこれに従い渡航計画を断念し同年コロムビア・レコードとの契約を得てアレンジでは高名でのちブラス・ロックの大立者となったジェイムズ・ウィリアム・ガルシオにプロデュースをオファーしたが断られ、ジョン・サイモンが担当しクーパーの見聞と体験からストリングスやホーン・セクションなどアレンジの多様化を図り、一部でカッツがリード・ヴォーカルをとる処女アルバム「Child Is Father to the Man(子供は人類の父である)〔英語のことわざで日本語では「子供は親の鑑」「三つ子の魂百まで」が相当する。〕」を1968年2月21日に発表、冗長なサイケデリック・ロックの追随はとらずビッグバンドや欧州のポップスなどを範としボサノヴァなどを取り入れフォーク・アーティストの楽曲を含む作品は発表当時より後世の評価が高いものとなった。しかしクーパーは次作の構想を固めリハーサル・セッション中にバンドからボイコットされた。
全員が大卒というインテリバンドだった。ランディ・ブレッカートランペット)、ジェリー・ワイス(トランペット)の脱退は契約期間満了など、主要人物アル・クーパーの排除以降アルの後任としてローラ・ニーロを勧誘したがこれは実現せず、デヴィッド・クレイトン・トーマス等が加入。バンドの初心は失われ以後ロックジャズを融合させ、リズム・セクションに重厚なホーンを加えたサウンドを強調し人気を博した。
オリジナルメンバーの中のドラムス担当だったボビー・コロンビーは、その類いまれなるドラミングセンスにより、バンドはミュージシャンたちからも注目され、支持されるようになる。そんなドラミングのレコーディングは、実際は、その当時から名スタジオミュージシャンだった、バーナード・パーディによる演奏だったとパーディ自身も広言していたが、数々のライブでコロンビー本人のプレイであることが明らかとなっている。コロンビーは、有名大卒のMBA取得者でもあり、後にコロンビアレコードの副社長にまでなった。
セカンド・アルバム『Blood, Sweat & Tears』は1969年グラミー賞の最優秀アルバムを受賞し、ブラス・ロックの中心的バンドとなった。しかしながら、バンドメンバーの中で唯一、大卒ではないトーマスのフロントマンとしてのワンマンバンド的なふるまいにプレイヤーの多くが反発。しかしながら、彼の力強い個性的なヴォーカルがバンドの名物であったため、多くのメンバーがクレイトン・トーマスのヴォーカル時代にバンドを去った。そして、まだまだロックがビッグビジネス化する前の時代ゆえ、その多くは音楽ではなく実業界のほうに転出していった。1971年には初来日し、武道館でコンサートを行なっている。
現在も、メンバーはオリジナルから大幅に代わっており、新曲の発表もないものの、ヴォーカルのデヴィッド・クレイトン・トーマスを中心としたメンバーで、アメリカや世界各地でライブ活動などを行っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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