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ヒェロニム・アウグスティン・ルボミルスキ : ウィキペディア日本語版
ヒェロニム・アウグスティン・ルボミルスキ

ヒェロニム・アウグスティン・ルボミルスキポーランド語:Hieronim Augustyn Lubomirski, 1647年 - 1706年4月20日)は、ポーランド・リトアニア共和国大貴族、政治家、軍事指導者、帝国諸侯)。
王冠領野戦ヘトマンイェジー・セバスティアン・ルボミルスキとコンスタンツィア・リゲンザの3男として生まれ、ヴィシニチュヤロスワフおよびジェシュフの領主であった。プウォツク聖職録修道院長およびマルタ騎士で、1676年より王冠領大旗手1683年より王冠領宮内副長官、1692年より王冠領財務長官、1702年よりクラクフ県知事、クラクフ城代、王冠領野戦ヘトマンを務め、同年に共和国最高軍司令官である大ヘトマンに昇任した。
ルボミルスキはヤン3世ソビェスキの指揮下でタタールオスマン帝国軍と戦い、1673年ホチムの戦いにも参加した。また長兄スタニスワフ・ヘラクリュシュ同様、1665年に父が起こしたルボミルスキの反乱に参加することは拒んだ。1681年には通常セイムの議長に選ばれた。
1683年ウィーンへの遠征に参加し、第二次ウィーン包囲で勇猛さを示してその名を轟かせた。また、それに続くハンガリーでの戦役(大トルコ戦争)にも従軍した。1697年国王自由選挙では、フランス人のコンティ公フランソワ・ルイを支援した。1704年にはアウグスト2世に敵対するワルシャワ連盟を支持し、国王空位が宣言されるとスウェーデンの支援を受けてポーランド王位に就こうと画策した。しかし、スウェーデンがスタニスワフ・レシュチニスキを新王に選ぶと、失意のうちに政界から引退した。
== 叙勲 ==

* 白鷲勲章 - 1075年



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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