翻訳と辞書
Words near each other
・ ジャーマンウイングス9525便墜落事故
・ ジャーマンエッグ
・ ジャーマンカーズ
・ ジャーマンケーキ
・ ジャーマンシェパード
・ ジャーマンシルバー
・ ジャーマンスープレックス
・ ジャーマンタウン (ドック型揚陸艦)
・ ジャーマンタウン (メリーランド州)
・ ジャーマンタウンの戦い
ジャーマンフラッツへの攻撃
・ ジャーマンホイール
・ ジャーマンポテト
・ ジャーマンメタル
・ ジャーマン・カーズ
・ ジャーマン・コースト
・ ジャーマン・シェパード・ドッグ
・ ジャーマン・ショートヘアード・ポインター
・ ジャーマン・シーププードル
・ ジャーマン・スタンピード・レスリング


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ジャーマンフラッツへの攻撃 : ウィキペディア日本語版
ジャーマンフラッツへの攻撃[じゃーまんふらっつへのこうげき]

ジャーマンフラッツへの攻撃(ジャーマンフラッツへのこうげき、)は、アメリカ独立戦争1778年9月17日、現在のニューヨークハーキマーも包含するジャーマンフラッツ前線開拓地をイギリス軍を支持するロイヤリストイロコイ族インディアンの混成部隊が攻撃したものである。全体の指揮はモホーク族指導者ジョセフ・ブラントが執り、家屋や納屋を破壊し、作物を傷め、家畜は自分たちで使うために連れ帰った。開拓者たちはアダム・ヘルマーの英雄的急報によって警告されていたので、地元の砦に逃げ込むことができたが、軍事的な強さはなかったために襲撃を止めさせることはできなかった。
このブラントの攻撃は、彼自身あるいはロイヤリストやセネカ族指導者が指揮し、ニューヨーク西部やペンシルベニア北部フロンティアに対して行った一連の攻撃の1つだった。これに対してニューヨークの指導層は、イロコイ族領内にあるブラントの前進基地を破壊する遠征を命じた。
== 背景 ==

1777年、イギリス軍将軍ジョン・バーゴインが、ハドソン川流域の支配を巡って作戦を展開した。バーゴインはこの年10月、サラトガの戦い後に降伏を強いられた。その後のアップステート・ニューヨークはフロンティア戦争となった〔Graymont, pp. 155–156〕。ケベック植民地のイギリス軍当局は、ロイヤリストとインディアン・ゲリラ戦士に物資や武器を与えて支援した〔Kelsay, p. 212〕。1777年から1778年に掛けての冬、ジョセフ・ブラントなどイギリス軍と同盟するインディアンはニューヨークとペンシルベニアのフロンティアにある開拓地攻撃の作戦を立てた〔Graymont, p. 160〕。1778年2月、ブラントはオナカガ(現在のニューヨーク州ウィンザー)に作戦基地を設立した。イロコイ族やロイヤリストの混成部隊を徴募し、5月に行動を始めたときは総勢200ないし300名になっていたと推計されている〔Barr, p. 150〕〔Kelsay, p. 216〕〔Graymont, p. 165〕。ブラントの目的の1つは部隊の食料を確保することであり、またサスケハナ川バレーでの作戦展開を計画していたジョン・バトラーの部隊にも食料を供給することだった〔Halsey, p. 207〕。ブラントは5月遅くにコブルスキルを襲撃することでその作戦を開始し、夏の間フロンティアの集落に対する襲撃を続けた〔Graymont, pp. 165–167〕。
ブラントは7月にスプリングフィールドとアンドラスタウン(現在のジョーダンビル)を襲撃したとき、生き残った者に、間もなくジャーマンフラッツを攻撃することになると警告した〔Graymont, p. 175〕〔Kelsay, p. 224〕。ジャーマンフラッツの開拓地は1723年にドイツ・パラティンからの移民によって設立されていた〔Hanson, p. 2〕。1788年に行われた測量の後で、現在のモホーク川南岸にあるジャーマンフラッツと北岸のハーキマーが入れ替わって登録されてしまった〔Perkins and Hopson, p. 7〕。この地域はピーター・ベリンジャー大佐が指揮する地元民兵連隊が防衛にあたっていた。モホーク川の両岸にデイトン砦とハーキマー砦の2つがあった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジャーマンフラッツへの攻撃」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.