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ザキー・アル=アルスーズィー : ウィキペディア日本語版
ザキー・アル=アルスーズィー

ザキー・アル=アルスーズィーアラビア語; زكي الأرسوزي ‎’Zaki al-Arsuzi、1900年6月 - 1968年7月2日) は、シリア哲学者言語学者社会学者歴史家であり、アラブ・ナショナリストである。彼の思想は、バアス主義とその政治運動の発展に重要な役割を果たした。生涯にわたって幾つかの書籍を出版し、その中では『アラブの天賦の才はその言語にある』(1943年)が有名である。
アルスーズィーは、シリア・ラタキア中流階級の家庭に生まれ、フランスソルボンヌ大学留学中に、ナショナリズムに興味を持った。1930年にシリアに戻り、1933年に民族行動同盟(LNA) のメンバーをなった。その後、政党活動に幻滅し1938年ダマスカスに移り1939年にはLNAを脱退した。ダマスカスにおいては、学生を中心とするヨーロッパ史、ナショナリズム、哲学について議論するグループを主宰していた。LNAを去って間もなく、「明確な教義」を持ったアラブ・ナショナリストの政党として、アラブ民族党を設立した。バグダードで職を得たため短期間の活動であったが、すぐにシリアに戻ることになり、1940年11月に新たにアラブ・バアス党を結成した。1944年にメンバーのほとんどがアフラクとビータールの率いるアラブ・バアス運動に合流したが、両者は思想的にはほぼ同一であった。
1947年に 2つのバアス運動は合併し、後に政権を取ることになるアラブ・バアス党としてまとまった。しかし、合併したものの、アルスーズィーは合併大会に出席せず、党員資格も与えられなかった。1940年代から1950年代の時期には、政治から離れて教員として働いた。だが、1960年代のバアス党政権内の権力闘争が彼を復帰させることになった。政権内でアフラクビータール派閥と、サラーフ・ジャディードとハーフィズ・アル=アサドの派閥の間の対立が起きた。アフラクとビータールは敗れ1966年にシリアから逃れた。アフラクは、シリアのバアス党と決別したイラクのバアス党のもとに迎えられた。そのため、シリアのバアス党は、アフラクとビータールに代わるイデオローグとしてアルスーズィーを復帰させた。
アルスーズィーの社会、言語およびナショナリズムに関する思想はバアス主義の思想の一部となった。アラブ人が過去の千年間を失っていたアラブのアイデンティティを再確立するときにアラブ国家は統一される、というのがその考えであった。アラブの統一への鍵は言語であるとした。
==生涯==

===子供時代・青年時代:1899年-1930年===
アルスーズィーは、1900年にオスマン帝国支配下のラタキアのアラウィー派の中流家庭に生まれた〔Helms, 1984, pp. 64–65. 〕。母親のマリヤムが著名な宗教一家の出身である一方で、父親のナジーブは弁護士だった。2人の兄と2人の姉がいた。1904年に一家でアンティオキアに移住した。その頃、クッターブ(初等教育機関)で学び始め、コーランを記憶した。4年後、両親は彼にオスマン帝国内の正統な教育を受けさせるためにRüşdiye(中等学校)に入学させた。1915年、彼の父は民族主義的な活動をしたとして、オスマン帝国当局によって逮捕された。アルスーズィーは後にアラブ・ナショナリズムに関心を抱くきっかけになった出来事であったと回想していた。彼の父が短期間投獄された後、一家はコンヤの街に移住させられた。1年後、アンティオキアに戻ることが許された。アルスーズィーによると、彼の父は、ファイサル1世がダマスカス入りしたというニュースを聞いて、アンタキアの政府庁舎のオスマン帝国旗をハーシム家の旗に取り替えた。
第一次世界大戦後、アルスーズィーはレバノンの在俗会(Institut Laïc)で学び始めた。そこで哲学に触れると共に、フランス語の語学力を極めた。一方で無神論者として煙たがられた。彼はしばしば、「神の子より地上の我々のほうがよほど様々な問題を解決できる」と言っていた。修了後、アンティオキアの中等学校の数学教師の職を得たが、その後アルスーズ学区を統率する職に就き、1924年から1926年まで務めた。1927年、フランス高等弁務事務所から奨学金を得てソルボンヌ大学(パリ大学)に留学した。1930年まで留学していたが、学位を得ることは無かった。留学中、前植民地行政官ジャン・ガルミエと親交を結んだ。ソルボンヌでは19世紀ヨーロッパ哲学に魅せられ、ジョルジュ・デュマ、エミール・ブレイエレオン・ブランシュヴィック(彼の指導教授)、アンリ・ベルクソンヨハン・ゴットリープ・フィヒテなどの哲学に関心を持った。最も影響を受けた書籍は、ベルクソンの『創造的進化』(L'Evolution créatrice)、フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』(Reden an die Deutsche Nation)であった。思想家の中ではフィヒテに最も共感していた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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