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クルト・ザンデルリング : ウィキペディア日本語版
クルト・ザンデルリング

クルト・ザンデルリング(Kurt Sanderling, 1912年9月19日 - 2011年9月18日)は、ドイツ指揮者である。息子のトーマスシュテファンはともに指揮者、ミヒャエルチェリストである。
== 略歴 ==
東プロイセンのアリス(現在のポーランドヴァルミア=マズールィ県)に生まれた。幼い頃から音楽に興味を示し、10歳でケーニヒスベルク(現ロシアカリーニングラード)のギムナジウムに通い、音楽を学び始めた。
1931年にベルリン市立歌劇場コレペティートルとして音楽家としてのキャリアをスタートさせた。しかしナチスが勢力を拡大すると、母親がユダヤ人であった彼はドイツ国籍を剥奪され、1935年におじが在住していたソビエト連邦に亡命した。同国ではモスクワ放送交響楽団ジョルジュ・セバスティアンのアシスタントとして研鑚を積んだ。
1937年にモスクワモーツァルトのオペラ『後宮からの誘拐』を指揮してデビューした。1939年にはハリコフ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任した。1941年にレニングラート・フィルハーモニー交響楽団の第一指揮者に就任し、エフゲニー・ムラヴィンスキーの下でさらに研鑚を積んだ。このソ連滞在中にドミートリイ・ショスタコーヴィチと知り合い、親交を結んだ。1958年のレニングラート・フィルの初訪日公演では指揮者の一人として日本を訪れた。
その後、1960年に東ドイツ政府に請われて帰国し、ベルリン交響楽団の芸術監督、首席指揮者に就任、短期間のうちにこの歴史の浅いオーケストラを同国屈指のレベルにまで鍛え上げた。1964年から1967年まではシュターツカペレ・ドレスデンの首席指揮者も兼務した。
1965年にザルツブルク音楽祭にデビューし、西側でも広くその名を知られるようになった。1972年には健康の衰えの見られたオットー・クレンペラーを補佐する要請を受け、フィルハーモニア管弦楽団の首席客演指揮者に就任した。後に同楽団からは名誉指揮者に任命された。
1973年のシュターツカペレ・ドレスデンの来日公演では、すでに首席の座を離れていたにもかかわらず、メインの指揮者として帯同した。その後もたびたび来日し、1976年、1978年、1980年、1990年には読売日本交響楽団を客演指揮し、同楽団から名誉指揮者に任じられた。
1977年にはベルリン響のポストを退いたが、同楽団とは以後も終身客演指揮者、名誉指揮者として緊密な関係を保った。その後はフリーの立場で精力的な活動を続けた。
2002年に高齢を理由に指揮活動からの引退を表明、5月19日の引退演奏会でベルリン響を指揮してブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」、モーツァルトのピアノ協奏曲第24番(共演は内田光子)、シューマン交響曲第4番を演奏し、自らの指揮活動に幕を降ろした。
2011年9月18日、ベルリンで死去した。98歳没。死因は老衰とみられる〔クルト・ザンデルリンク氏死去 ドイツの名指揮者 - 47NEWS(よんななニュース) 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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