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カルナータカ戦争 : ウィキペディア日本語版
カーナティック戦争[かーなてぃっくせんそう]

カーナティック戦争(カーナティックせんそう、英語:Carnatic Wars)とは、18世紀南インドで、イギリスインドの拠点であったマドラスフランス領インドの拠点であったポンディシェリーとの間で3次にわたって繰り広げられた戦争。ここで言及されるカルナータカ地方は、現在のアラビア海に面したカルナータカ地方とは違い、アーンドラ地方タミル地方の一部を指す。また、カーナティックは英語読みであるため、カルナータカ戦争とも呼ばれる。
ヨーロッパのオーストリア継承戦争七年戦争と連動し、南インドにおいて、南インド東海岸の貿易拠点や荷物の集散地をめぐって争われ、オーストリア継承戦争後も続いた。最終的にはイギリス側の勝利に終わった。
==第1次カーナティック戦争(1744年 - 1748年)==

17世紀後半に絶頂期をむかえたムガル帝国も、1707年にアウラングゼーブが死去すると分裂状態に陥り、これに乗じてイギリスマドラスを拠点に、フランスポンディシェリーを拠点に、両東インド会社はともに勢力をのばして争った。
ムガル帝国の分裂後、1713年以降カルナータカ地方政権がカルナータカ地方を支配していたが、太守家であるナワーヤット家の内乱でデカンニザーム王国の介入で、1742年10月には太守サフダル・アリー・ハーンが暗殺されるなど、その宮廷の状況は極めて悪かった。
1744年7月に太守サーダットゥッラー・ハーン2世が殺されると、ニザーム王国のアーサフ・ジャー1世によって、ワッラージャ家アンワールッディーン・ムハンマド・ハーンが新太守に任命された。
これに激怒したのが、ナワーヤット家のチャンダー・サーヒブで、彼はサーダットゥッラー・ハーン2世の義理の叔父である自分こそが新太守にふさわしいと思っていた。
これにより、ナワーヤット家とワッラージャ家との対立が生じ、1740年に勃発したヨーロッパ大陸で起きたオーストリア王位継承戦争でのイギリスとフランスの戦闘がインドにも波及し、マドラスを拠点としたイギリス、ポンディシェリーを拠点としたフランスとの間にも緊張が走った。

そして、1744年にカルナータカ地方の沿海で、イギリスがフランスの船を捕えたため、第1次カーナティック戦争(カルナータカ戦争)が勃発した。
アンワールッディーン・ムハンマド・ハーンは陸上での戦いを禁止したため、イギリスとフランスは海上での戦いを中心としたが、のちに両国はこれを無視するようになり、争いは陸上に持ち込まれた。
イギリスとフランスは南インドの地で4年にわたり争い、当初、イギリスは南インド東海岸一帯を占領するが、ポンディシェリのフランス領インド総督ジョゼフ・フランソワ・デュプレクスのもと優勢に戦い、一時は中部・南部インドでイギリス勢力を圧倒し、1746年9月21日にはマドラスの戦いでマドラスを占領するなど善戦した。
1748年10月、オーストリア継承戦争が終わると、アーヘンの和約が結ばれ、フランスもマドラスを返還し、第1次カーナティック戦争も終結した。
なお、この第1次戦争では、現地勢力はあまり関与しなかったが、アンワールッディーン・ムハンマド・ハーンがマドラス陥落の直前に援軍を送ったことで、これ以降戦争は現地勢力も巻き込んでいくこととなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Carnatic Wars 」があります。



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