|
1932年アメリカ合衆国大統領選挙(1932ねんアメリカがっしゅうこくだいとうりょうせんきょ、英:United States presidential election, 1932)は、1929年の株式市場の崩壊と世界恐慌の影響が国中を厳しく覆った中で行われた。現職大統領で共和党のハーバート・フーヴァーの人気は、有権者達がフーヴァーでは経済の崩壊を回復できず、禁酒法もうまく扱えないと感じるにつれて下降していった。民主党のフランクリン・ルーズベルトは、フーヴァーがこれらの問題に処せなかったことが自分の選挙運動のための綱領に利用できると考え、ニューディール政策と呼ばれる改革を公約した。ルーズベルトがどのようにして事態を変えられるかについてははっきりしていなかったが、地滑り的勝利を得た。この「時代を画した選挙」は第四政党制すなわち進歩主義の時代の崩壊を告げた。有権者達は間もなくルーズベルトのニューディール連合に支配される第五政党制に組み込まれることになった。 == 候補者の指名 == === 民主党の指名 === 民主党の指名候補者 画像:Newton Baker, Bain bw photo portrait.jpg|ニュートン・ディール・ベイカー、元アメリカ合衆国陸軍長官、オハイオ州出身 画像:Harry F. Byrd.jpg|ハリー・F・バード、元バージニア州知事 画像:John n garner.jpg|ジョン・N・ガーナー、下院議長、テキサス州出身 画像:Albert Ritchie, photo portrait head and shoulders.jpg|アルバート・リッチー、メリーランド州知事 画像:Rogers-Will-LOC.jpg|ウィル・ロジャース、映画俳優、オクラホマ州出身 画像:FDR in 1933.jpg|フランクリン・ルーズベルト、ニューヨーク州知事 画像:AlSmithWaves.jpg|アル・スミス、元ニューヨーク州知事、1928年の大統領候補者 * ウィリアム・H・マレー、オクラホマ州知事 * ジェイムズ・A・リード、ミズーリ州選出アメリカ合衆国上院議員 * メルビン・A・トレイラー、銀行家、イリノイ州出身 * ジョージ・ホワイト、オハイオ州知事 1932年の春と夏を通じて、ニューヨーク州知事フランクリン・ルーズベルトは民主党の指名を得る有力候補と見られていた。しかし、1928年の大統領候補者だったアル・スミスがマサチューセッツ州予備選でルーズベルトを破るなど、予期せぬ挫折を味わった。それでもシカゴで民主党全国大会が始まったとき、ルーズベルトは他の候補者全部を合わせたよりも多くの代議員票を集めるものと思われていた。しかし、3分の2ルールのために、多くの対抗馬はルーズベルトが指名を得られないことを期待し、そうなれば後の投票で代議員達が自分達に目を転ずるものと考えた。 第1回目の投票で、ルーズペルトは対抗馬達を大きく凌ぎ、対抗馬の中ではスミスが最強だった。しかし、ルーズベルトは指名を得るために必要な3分の2を得られなかった。次の2回の投票でルーズベルトの獲得票はほんの少し増加しただけであり、そのマネジャーであるルイス・ハウとジェイムズ・ファーリーは、もし次の数回で指名を得られなければ、その強さは退潮して他の候補に動いていくのではないかと心配になった。第4回目の投票が始まる前にファーリーとハウは新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストと取引し、ルーズベルトが下院議長でやはり大統領指名候補でもあるジョン・N・ガーナーを副大統領候補にするつもりだと流した。ガーナーとそのマネジャーであるテキサス州選出の下院議員サム・レイバーンはこの取引に応じ、4回目の投票でガーナーが指名候補から降りてルーズベルトを支持した。さらに元財務長官のウィリアム・マカドゥーは、8年前に自身の大統領への野望がアル・スミスによって挫折させられたこともあり、喜んでカリフォルニア州の票をガーナーからルーズベルトに変え、このことで4回目の投票の終わりにはルーズベルトの指名に向けて大勢が動くこととなった。 民主党の綱領には禁酒法の撤廃が含まれた(アルコールを許可するか禁止するかは個々の州の決定に委ねられる)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「1932年アメリカ合衆国大統領選挙」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|