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誠心会館 : ミニ英和和英辞書
誠心会館[せいしん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [まこと]
  1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion 
誠心 : [せいしん]
 (n) sincerity
: [こころ, しん]
 【名詞】 1. core 2. heart 3. wick 4. marrow 
: [かい]
  1. (n,n-suf,vs) meeting 2. assembly 3. party 4. association 5. club 
会館 : [かいかん]
 【名詞】 1. meeting hall 2. assembly hall 
: [やかた, かん, たて, たち]
 【名詞】 1. (1) mansion 2. small castle 3. (2) boat cabin

誠心会館 ( リダイレクト:青柳政司 ) : ウィキペディア日本語版
青柳政司[あおやぎ まさし]

青柳 政司(あおやぎ まさし、1956年12月27日 - )は、日本空手家、元プロレスラー福岡県糟屋郡〔参考文献『週プロ』2014-10-15 pp72 「実は福岡生まれ」の節より〕〔プロフィール上は青柳が生まれてほどなく転居した愛知県豊田市出身となっている〕。身長172cm、体重93kg。空手道場・誠心会館の館長であり、通称・青柳館長プロレスへの参戦活動で知られ、プロレスリング・ノアを主戦場としていた。
== 経歴 ==
プロレスへの憧れは中学生時代からあったが、当時は身長180cmに満たない選手など稀な時代であったため、あきらめていた。高校には進学したが家庭の事情から退学。運送会社で働くかたわらで会社の近所に糸東流の空手道場がオープンし、そちらに通い始め空手道に身を進める〔『週プロ』2014-10-15 pp72 「馬場や猪木より外国人選手が好きだった」節より〕。
その後東海地区のさまざまな空手大会で優勝し、1978年、22歳の時に他流派でありながら極真会館主催の「第10回オープントーナメント全日本空手道選手権大会」に出場。ベスト16の成績を残す。その翌年運送会社を退職し上京。極真会館の本部に入門したがわずか半年で辞めてしまう、地元に戻り元・弟子達と新たに空手道場「誠心会館」を設立した〔『週プロ』2014-10-15 pp73 「東海地区で敵なし一時は極真へ入門するも…」節より〕
梶原一騎原作の劇画『四角いジャングル』に「愛知に強豪がいる」と描かれるなど名声があがり、1988年に開催された「格闘技の祭典」からオファーがあり、大仁田厚異種格闘技戦にて対戦。この事でプロレスとの接点が生まれる。その後、1989年10月6日に行われたFMWの旗揚げ戦における大仁田との再戦で正式にプロレスデビュー。大仁田との対戦は1勝1敗1無効試合となっていて、このまま抗争が盛り上がると思われた矢先にFMWを離脱、弟子の松永光弘を引き連れパイオニア戦志のリングで剛竜馬と抗争するものの、パイオニア戦志は崩壊してしまう〔『週プロ』2014-10-15 pp73 -74, 「トラック内でバーベルを挙げフロントガラスを拳で割る」節より〕。
1990年6月12日、新日本プロレスに参戦し、獣神サンダー・ライガーと異種格闘技戦を戦ったのを期に新日本に定期参戦。1992年から齋藤彰俊ら門下生を率いて越中詩郎と抗争を繰り広げる。その後、越中が誠心会館の自主興行に参戦し新日本プロレス選手会と対立すると越中と共に反選手会同盟を結成、後に平成維震軍と改名する。1994年に平成維震軍を脱退し、新格闘プロレスを旗揚げ。修斗と提携し、エースとして異種格闘技色の強いプロレスを展開するが所属選手が次々と秒殺された上に、自身も木村浩一郎に敗北。「今度負けたら引退する」とリベンジを宣言するが、再戦を行わないまま一方的に団体を離脱し、団体は自然消滅する。その後、WWFマニアツアーに参戦後、東京プロレスレッスル夢ファクトリーを渡り歩き、2000年三沢光晴プロレスリング・ノアを旗揚げすると、斎藤と共に参戦。2012年11月には、長年の空手道における文化教育活動が認められ、東久邇宮文化褒賞を受賞した〔『週プロ』2014-10-15 pp74 「東久邇宮文化褒賞 左目を失明するも現役続行」節より〕。
その後は愛知県近郊の興行を中心に主に前座試合に出場。
2007年12月8日D.E.P刈谷大会で誠心会館時代の弟子でもある、深谷友和を破り2代目D.E.P王者となった。
2013年1月、久々にノアのリングに登場、9人参加のバトルロイヤルを制しノアマットで約8年7ヶ月ぶりの勝利を挙げる。
その際に以前から患っていた網膜剥離が悪化し左目が完全に失明したことを告白。しかし今後もプロレス活動を続けると宣言した〔 青柳が8年ぶりに方舟勝利、左目失明を告白『週刊プロレス』NO.1668、ベースボール・マガジン社、2013年、雑誌29681-2/6、33頁。〕〔『週刊プロ』2014-10-15 pp74,〕。
2015年5月9日、ツーリング中に事故に遭う。右膝から下を30箇所粉砕骨折する重傷を負い〔青柳館長が事故で引退 - 東京スポーツ・2015年6月2日〕、リングへの復帰は不可能であると医師に宣告を受ける。これにより、同年6月1日をもって引退することを宣言した〔。10月4日、プロレスリング・ノア「GREAT VOYAGE 2015 in NAGOYA」にて引退セレモニーを行った〔プロレスリング・ノア公式サイト PRO-WRESTLING NOAH OFFICIAL SITE 〕〔青柳政司引退セレモニー 万雷の館長コールの中10カウント - 東スポWeb・2015年10月4日〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「青柳政司」の詳細全文を読む




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