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肥田金一郎 : ミニ英和和英辞書
肥田金一郎[ひだ きんいちろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こえ]
 【名詞】 1. manure 2. night soil 3. dung 4. fertiliser 5. fertilizer 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [きん]
  1. (n,n-suf) (1) gold 2. (2) gold general (shogi) (abbr) 
: [いち]
  1. (num) one 

肥田金一郎 : ウィキペディア日本語版
肥田金一郎[ひだ きんいちろう]

肥田 金一郎(ひだ きんいちろう、1874年7月2日 - 1936年8月11日)は、日本実業家。父・肥田昭作が採掘権を獲得した福島県高玉鉱山を経営する傍ら、福島県馬産の要職に携わる。日本中央競馬会(JRA)福島競馬場に連なる福島競馬倶楽部の公認開催権取得に功績を残し、また後には1908年の馬券禁止以来苦境に陥っていた千葉県中山競馬倶楽部の地位向上に尽くし、日本の最高障害競走中山大障害を創設するなど、のちに中央競馬の主要場となる中山競馬場の礎を築いた。
== 経歴 ==

=== 福島県産馬・競馬事業について ===
1874年、東京市に生まれる。1892年、旧制学習院中等科を卒業し、福島県高玉鉱山に入社、1919年まで経営に携わった〔『馬事功労十九氏事蹟』778頁。〕。
馬好きだった昭作の影響もあって自身も馬をよく好み、福島在住の間、県馬産事業に深く関わった。1912年に安達郡高川村から産馬組合議員に選出されたのを初めとして、1917年には安達郡産馬畜産組合長に就任した〔。福島はかつて1万5000頭の馬を生産した本州第一の馬産地であったが、この当時は1万1000頭前後まで減少しており、これを憂えた前組合長・伊藤彌(わたる)がオーストラリアから牝馬の輸入を画策していた。しかし伊藤は計画実現を目前にして没したため、肥田がこの事業を引き継いで各方面との折衝を行い、1919年に第1回の輸入が実現、以後3度にわたって40頭の牝馬が持ち込まれ、競馬や馬匹改良に充てられた〔『馬事功労十九氏事蹟』787-789頁。〕。これは福島県に「豪サラ」が持ち込まれた最初の例となった〔。1920年、肥田は畜産組合長および1915年から務めていた高川村々長を辞し、翌1921年に馬政長官より産馬功労者表彰を受けた〔『馬事功労十九氏事蹟』777-778頁。〕。
肥田は馬産地福島県に公認競馬を設置することにも成功した。創立以来経営不振が続いていた静岡県藤枝競馬倶楽部が開催権の売却を希望していることを知ると、県内有力者の説得に努め、1917年12月、権利買収に成功。翌1918年に公認競馬施行体・福島競馬倶楽部が発足した〔『馬事功労十九氏事蹟』779頁。〕。肥田は1921年より会頭、1923年より副会頭となった〔。なお、1918年の福島開場以前は、開成山競馬場で開催が行われていたが、肥田はここで自身の所有馬に騎乗してレースに出走する「紳士騎手」としての顔もあった。
また、1920年に競馬協会(帝国競馬協会)の理事に当選し、理事長安田伊左衛門らと共に競馬法の制定に取り組んだほか〔『中山競馬場70年史』34頁。〕、馬匹改良上重要でありながら管理がずさんだった馬の血統および能力登録の必要性を説き、協会事業として行わせている〔『馬事功労十九氏事蹟』788頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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