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立花鑑載 : ミニ英和和英辞書
立花鑑載[たちばな あきとし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はな]
 【名詞】 1. flower 2. petal 
: [かがみ]
 【名詞】 1. model 2. pattern

立花鑑載 : ウィキペディア日本語版
立花鑑載[たちばな あきとし]

立花 鑑載(たちばな あきとし)は、戦国時代武将大友氏の家臣。立花氏の第7代当主。筑前立花山城主。
立花氏は大友貞載の子孫の一族であり、大友氏の庶流である。鑑載は、立花宗家の当主立花鑑光(あきみつ)の子、実は日田親賢(親堅)の次男で、養子となったとされる。大友親明の孫。
== 略歴 ==
立花鑑光・鑑載〔表記は鑑俊とも。〕の両名は大友義鑑から偏諱(「鑑」の字)を授与されており、この代からの家臣とみられる。
天文19年(1550年)の二階崩れの変の後、子の大友義鎮(宗麟)の代になると永禄年間(1558年1570年)に鑑光(新五郎)が誅殺され、これによって後を継いで立花山城を領することとなった。
しかし、その恨みもあってか、永禄8年(1565年)、鑑載も大友宗麟に対し謀叛を起こしたが、吉弘鑑理に攻められ逃亡。後に宗麟から許され、奴留湯氏と立花山の東西両城を分け与えられている。許された理由は諸説あって定かではない。なお『九州諸家盛衰記』ではこのときに自害したとする異説を載せている。
永禄11年(1568年)に毛利元就の調略を受け、毛利勢の侵攻に呼応して高橋鑑種らと共に再び叛旗を翻した。この際に与力の薦野宗鎮米多比直知 (ねたび なおとも、大学助)を殺して、(立花山城の西の丸である)白嶽の奴留湯融泉(ぬるゆ ゆうせん)を攻撃したが、取り逃がした。報告を受けた宗麟は激怒し、戸次鑑連吉弘鎮信を攻撃に差し向け、城を攻囲させた。鑑載は安倍民部らと防戦したが敗れた。落城して自決したとも、竃門(かまど )勘解由允に斬られて首だけ豊後に送られたとも、投降したが二度の謀叛を許されずに処刑されたとも云う。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「立花鑑載」の詳細全文を読む




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