翻訳と辞書
Words near each other
・ 片山朗
・ 片山村
・ 片山村 (埼玉県)
・ 片山村 (岐阜県)
・ 片山村 (愛知県)
・ 片山杜秀
・ 片山東熊
・ 片山栄次
・ 片山桃史
・ 片山梨絵
片山楊谷
・ 片山正樹
・ 片山正通
・ 片山正雄
・ 片山沙有里
・ 片山洋
・ 片山津IC
・ 片山津インターチェンジ
・ 片山津本町駅
・ 片山津温泉


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

片山楊谷 : ミニ英和和英辞書
片山楊谷[かたやま ようこく]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [よう, やなぎ]
 【名詞】 1. willow 2. slim

片山楊谷 : ウィキペディア日本語版
片山楊谷[かたやま ようこく]
片山 楊谷(かたやま ようこく、宝暦10年(1760年) - 享和元年8月24日1801年10月1日))は、江戸時代中期に活躍した長崎派絵師長崎出身。
== 略伝 ==
本姓は洞、名は貞雄、通称は宗馬。楊谷は号で、初号に洞勸、別号は画禅窟〔『因伯記要』〕。一説に「名は温、一に義夫、字は玉如〔『大日本書畫名家大鑑』〕。父は長崎で医者をしていた洞雄山〔『長崎名家墓所一覧 三』 (長崎歴史文化博物館蔵)〕〔『大音寺過去帳』 (長崎歴史文化博物館蔵)〕、あるいは洞雄敬〔〔『因伯記要』は楊谷の伝記を知るための基本文献であるが、この記載の元になった原資料が確認できないことから、現時点では雄山の方が正しい可能性が高い。なお、木村蒹葭堂日記には「洞雄敬」なる人物が2度訪ねた記載があり、蒹葭堂が賛をした楊谷作品があることから、雄敬は楊谷の名とも考えられる。〕の子として生まれる。一説に父が中国人で、母は日本人とも言われるが定かではない。幼少時に父を亡くしている。
1772年安永元年)13歳で諸国を巡歴して〔『鳥取藩史』〕、19歳の時には既に5人の弟子がいるほどの腕前だった〔『画伝誓文』〕。17歳で鳥取の興禅寺に逗留して絵を描き、のちに法美郡桂木村の医師・中山東川の娘を妻とする〔。若桜藩主・池田定常に絵を気に入られ、貞経は楊谷を引き止めるため、1792年寛政4年)鳥取藩士で茶道役の片山家に夫婦とも養子とした〔「片山家系」〕。翌年家督を継ぎ、亡くなるまで9年間務めた。
1795年(寛政7年)湯治のため藩の許しを得て京都に行き、画名を得たという〔。円山応挙に弟子入りを請うと、応挙はその画才を見て驚嘆し、弟子ではなく友人として迎えた。また、学芸を好んだ妙法院門主真仁法親王の前で席画を披露する。更にその兄・光格天皇は楊谷を宮中に招き、従五位下位階を与え楊谷に数十幅の画作を依頼する。楊谷が画を完成させ披露すると、天皇はその出来に満足し褒美としてと名硯・石王寺硯を与えた。楊谷はこれを愛用し一生肌身離さなかったいわれる〔。1800年(寛政12年)但馬の山路寺で数多くの障壁画を手掛け、現在兵庫県指定文化財になっている〔まちの文化財(43) 山路寺の障壁画 〕〔高野山真言宗・平林山・山路寺 〕。ところが、但馬の湯村温泉で入浴中、突然発病してにて死亡。享年42。菩提寺は鳥取の興禅寺、または長崎の大音寺
画風は費漢源に近く、その弟子に画法を学んだと推測される。しかし、沈南蘋や他の長崎派の画風も摂取していったことが観察できる。特にそのの絵は、虎の毛を細い線で丹念に表し、「楊谷の毛描き」と呼ばれている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「片山楊谷」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.