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津雲國利 : ミニ英和和英辞書
津雲國利[り]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [くも]
 cloud
: [り]
 【名詞】 1. advantage 2. benefit 3. profit 4. interest 

津雲國利 ( リダイレクト:津雲国利 ) : ウィキペディア日本語版
津雲国利[つくも くにとし]

津雲 国利(つくも くにとし、1893年明治26年)10月13日 - 1972年昭和47年)1月4日)は、日本政治家衆議院議員(8期)。元拓務政務次官
== 生涯 ==
東京府西多摩郡青梅町上町(現・東京都青梅市)出身。旧制東京府立第二中学校(現・東京都立立川高等学校)卒業〔津雲 国利とは コトバンク。2016年2月7日閲覧。〕。安田銀行古河銀行に勤務した〔『人事興信録 第13版下』 人事興信所 編、1941年、ツ2頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月7日閲覧。〕。宇都宮市に於いて新聞経営に従事した〔。下野銀行相談役、下野新聞社顧問、下野日日新聞社顧問などを歴任した〔『翼賛議員銘鑑』 議会新聞社、1943年、255頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月7日閲覧。〕。
1928年(昭和3年)の普通選挙による最初の総選挙で当選し政界に入った。通算8回衆議院議員に当選した。戦前は立憲政友会に所属し、久原房之助直系の政治家として政友会の幹事、総務、顧問を歴任した〔津雲 國利(つくも くにとし)略歴 〕。
1939年(昭和14年)年の政友会分裂に際しては久原や鳩山一郎とともに正統派に所属したが、鳩山・三土忠造自由主義的な議員が多い政友会正統派内にあって津雲は総裁・久原とともに数少ない親軍派として知られた。政党解消後は翼賛政治を押し進め、東條内閣に対しても政権末期に親軍派の中から倒閣運動を支持する者が出てきた中にあって最後まで東條内閣を支持した。
戦後は旧政友会正統派の大半を占める鳩山系の議員が結党に参加したものの旧反軍派の流れを汲む日本自由党にも、親軍派の政治家が多く所属した大日本政治会を母胎としながらも鳩山系は勿論久原系も含め政友会正統派の議員が殆ど結党に参加しなかった〔政友会分裂時に政友会正統派に所属した議員で戦後進歩党結党に参加した者は猪野毛利栄中井一夫西川貞一依光好秋高畠亀太郎三善信房綾部健太郎の7名のみである。同じく政友会正統派に所属していた三土忠造は進歩党と連携し、進歩党が与党となった幣原内閣にも入閣したが、進歩党の結党自体には参加しなかった。〕日本進歩党にも参加せず〔第八八、八九回帝国議会 貴族院・衆議院解説 〕、岡田忠彦西村茂生肥田琢司東条貞松浦伊平ら旧政友会正統派内の他の久原系の議員とともに院内会派・無所属倶楽部の結成に参加した〔『戦時議会史』、538頁 - 539頁。〕。だが翼賛議員同盟の理事を務める等翼賛議会の要職を歴任したため公職追放された。
追放解除後は自由党に復党したものの1952年(昭和27年)の第25回衆議院議員総選挙には落選し、翌年の第26回衆議院議員総選挙で返り咲きを果たした。連続6回当選を果たした戦前とは対照的に戦後は選挙が弱く、6回総選挙に立候補して当選したのは2回だけだった。1955年(昭和30年)の第27回衆議院議員総選挙に落選した後保守合同により自由民主党の結党に参加し、自民党内では久原の娘婿・石井光次郎が率いる水曜会(石井派)に所属した。1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙に当選して2度目の返り咲きを果たし、自民党石井派の代議士として活動したものの、3年後の第30回衆議院議員総選挙に落選し、政界から引退した。
1972年(昭和47年)1月4日、78歳にて死亡。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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