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梅島昇 : ミニ英和和英辞書
梅島昇[うめじま のぼる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [うめ]
 【名詞】 1. (1) plum 2. Japanese apricot 3. prunus mume 4. (2) lowest (of a three-tier ranking system) 
: [しま]
 【名詞】 1. island 

梅島昇 : ウィキペディア日本語版
梅島昇[うめじま のぼる]
梅島 昇(うめじま のぼる、1887年5月5日 - 1943年9月24日)は明治から昭和初期に活躍した、新派劇の二枚目俳優。本名、福島卯三郎(ふくしま うさぶろう)。代表的な当たり役として「婦系図」早瀬主税、「金色夜叉」間貫一、「不如帰」川島武男、「滝の白糸」村越欣弥がある〔『演劇界』演劇出版社、2004年、第 62 巻、第 1~5号、256頁。〕〔志賀直哉『志賀直哉全集 第16巻』岩波文庫、2001年、36頁、ISBN 978-4000922265。〕〔新派関連氏名便覧 、2013年5月8日閲覧。〕〔倉田喜弘・藤波隆之編『日本芸能人名事典』三省堂、1995年初版第1刷発行、126頁、ISBN 4-385-15447-3。〕。
==生涯==
1887年東京日本橋に生まれる。東京薬学専門学校中退。1910年菊池武成門下で新派俳優に。翌1911年川上音二郎に師事し御伽芝居「浮かれ胡弓」で初舞台。同年、川上が死去し、最後の弟子となる。1912年高田実門下。さらに水野好美一座に移り、梅島昇を名のり二枚目として認められる。〔〔早稲田大学坪内博士記念演劇博物館編『演劇百科大事典 第一巻』平凡社、1960年発行、ISBN 4-582-11100-9。〕〔新潮社辞典編集部編『新潮日本人名事典』1991年発行、ISBN 4-10-730210-5。〕
1917年小林商会にて後述する数本の無声映画に出演。1919年ごろ高田門下先輩格の井上正夫の元へ身を寄せ〔、本郷座を拠点とした新劇団「新組織新派」に一時期所属。1922年「修正第一回新派大合同」で井上のほか伊井蓉峰河合武雄喜多村緑郎花柳章太郎らと共に本郷座で新派劇の上演する〔大村尭彦「大正15年本郷座初春興行のこと ・ 本郷座の演劇のこと(後編)」『三田歌舞伎』歌舞伎研究会三田会 、2009年3月号-オンライン資料(PDFファイル) 、2013年5月8日閲覧。〕。この頃から二枚目として人気女形の花柳の相手役を多く務めるようになる〔『演劇界 第26巻』日本演劇社、1968年、115頁。〕。同年、曽我廼家五九郎の一座に引き抜かれ共演する〔伊藤整『日本近代文学大系 第41巻』角川書店、1961年、436頁。〕〔国立劇場編『近代歌舞伎年表 京都篇 第10巻』八木書店、2004年、500頁、ISBN 978-4840692328。〕。また、この公衆劇団時代にピーマ倶楽部というノンプロ球団を保有していた。〔大平昌秀著 異端の系譜 p51〕
1923年関東大震災を受け、梅島を含め大阪に数多くの役者が拠点を移し、大阪成美団に所属〔〔。花柳の「新進新派」と共に角座において合同一座にも参加〔『中央公論 第 1134~1136 巻』反省社、1980年、398頁。〕。一座には藤山寛美の父である藤山秋実などがいた。合同一座は、立ち上げ当初こそ人気を得たが、その後次第に低迷し、また内部のまとまりも悪く自然消滅する。〔『演劇界 第20巻 第1~6号』演劇出版社、1962年、136-137頁。〕
1929年1月、東京に戻り松竹新派大合同に参加し〔〔、1930年代には新派の主力二枚目俳優として明治座などで好演する〔古川ロッパ『古川ロッパ昭和日記〈戦前篇〉 新装版』晶文社、2007年、昭和九年-青空文庫 、2013年5月8日閲覧。〕〔同上、昭和十一年-青空文庫 、2013年5月8日閲覧。〕。スキャンダル渦中の映画スターの筑波雪子との共演が話題ともなった。東京に戻ったころに、向島で副業として始めた料亭「夕立荘」が成功し、経済的にも潤うこととなった。
また、軍事劇団の立上げに貢献したり〔新聞集成 昭和編年史 昭和十二年度版III 〕、軍作成の台本を元とした映画製作を計画したりするなど〔〕、軍部での活動も散見される。演芸統制を政見として、1936年衆議院議員総選挙に立候補し落選するが、応援演説で井上、河合、水谷八重子といった新派俳優の他にも、松本幸四郎 (7代目)市村羽左衛門 (15代目)市川左團次 (2代目)市川猿之助(2代目)歌舞伎俳優もかけつけたと言う。〔『京都日出新聞』1936年2月19日。〕〔前記『近代歌舞伎年表 京都篇 第10巻』15頁。〕 翌1937年衆議院議員総選挙にも東京4区で出馬するが再度落選〔大笹吉雄『日本現代演劇史昭和戦中篇 II』白水社、1997年、560頁〕。
1939年、花柳が新派劇の新劇化を目指す新生新派一党を立ち上げたが〔劇団新派公式サイト|俳優名鑑|歴代の名優(その1) 、花柳章太郎、2013年5月8日閲覧-劇団新派公式サイトトップページ 〕、梅島は賛同せず、喜多村、河合と共に本流新派に残る〔劇団新派公式サイト|新派について|新派の歴史 、戦時下の新派、2013年5月8日閲覧。〕。1942年に河合が死去すると、所属していた松竹が本流新派の運営を梅島に任せようとしたが、新聞広告で自分より他の役者が重きに扱われていることに怒り、9月本流新派ならびに松竹から脱退。9月新派正劇を大劇にて旗揚げも、10月に引退。〔戸板康二『新派: 百年への前進』大手町出版、1978年、135頁。〕〔菅井幸雄、香川良成『演劇論講座』汐文堂、1976年、223頁。〕翌1943年9月24日、東京にて急逝した〔『歌舞伎この百年』毎日新聞社、1978年、8頁。〕。享年57。葬儀の行われた夕立荘には、多くの俳優や見物が集まり、大層にぎやかであったと言われる〔『高見順日記 - 第 2 巻』勁草書房、1966年、第2部、641頁。〕。
その後、本流新派も瓦解し、新派は戦後新生新派に集約されていった。梅島は敗軍の将として扱われ〔、次第に人々から忘れ去られた役者となった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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