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柴田朝意 : ミニ英和和英辞書
柴田朝意[しばた とももと]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しば]
 【名詞】 1. brushwood 2. firewood 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [あさ, ちょう]
 (n-adv,n-t) morning

柴田朝意 : ウィキペディア日本語版
柴田朝意[しばた とももと]

柴田 朝意(しばた とももと)は、江戸時代前期の武士仙台藩重臣。伊達騒動の主要人物の一人。通称の“柴田外記”で知られる。
== 生涯 ==
慶長14年(1609年)、土佐国戦国大名であった長宗我部氏の旧臣・佐竹親直の二男として生まれる。幼名は輪丸。母は長宗我部元親の娘・阿古姫
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で父が主君・長宗我部盛親に従い討死すると、輪丸らは母・兄と共に大坂城を脱出したが伊達勢に捕らえられてしまう(いわゆる乱取り)が、母子三人は伊達政宗の判断で助命され、母の阿古姫は侍女として、輪丸と兄は小姓として仙台藩に召抱えられることになった。輪丸ははじめ故郷の土佐上賀江に因んで賀江(かえ)忠次郎と名乗ったが、寛永5年(1628年)に登米郡米谷城主・柴田惣四郎宗朝が跡継ぎ無くして死去すると、忠次郎がその異父妹・申の婿に迎えられ、養父・宗朝の「朝」と祖父・元親の「親」から一字ずつを取って柴田朝親と名乗った。のちに朝意に改める。
万治元年(1658年)、伊達綱宗が第3代藩主になると江戸番頭から留守居に役替えとなり、綱宗押込め後の万治3年(1660年)12月には富塚重信と共に奉行職に就いた。この時の奉行は茂庭定元奥山常辰古内重安大條宗頼と朝意・富塚の6人であったが、茂庭が奥山との争いに敗れ失脚すると、筆頭奉行の奥山以外は柴田を初めとした新任の奉行ばかりとなり、加えて奥山は綱宗や仙台藩と親族関係にある柳川藩主の立花忠茂、2人いる綱村の後見人の一人である伊達宗勝の信用を得て権力を掌握した。
しかし寛文元年から同2年(1661年 - 1662年)にかけて、内分分知の大名である宗勝やもう一人の後見人の田村宗良と仙台藩との関係を巡って、奥山と両後見人が対立した。さらに一門の涌谷伊達氏の伊達宗重や奉行の富塚らがの要求により、奥山は寛文3年(1663年)に失脚する。これにより、それまでは藩政への直接介入をなるべく避けてきた宗勝が、仙台藩政の主導権を本格的に握ることになった。宗勝は以前更迭した茂庭を奉行に復帰させる一方で、寛文4年(1664年)に宗勝が茂庭に出した書状において朝意や古内義如と義絶するよう唆すなど、奉行衆の間に亀裂を生じさせてその力を弱めようとした。これは、宗勝の寵愛を得た目付上がりの小姓頭渡辺義俊らの画策によるもので、宗勝は渡辺ら目付に対し奉行を上回るほどの権限を与えたため、藩政は次第に混乱の度合いを深めていった。
寛文7年の幕府国目付への饗応での席次を原田宗輔と相談して決めたが、本来なら3番目の席次に着くべきはずの古内重定(田村宗良の甥)と伊東重門(宗良の義弟)を差し置いて宗輔の子・宗誠を上座に付けたため、これに憤った伊東重孝らが抗議し、諍いに発展した。さらに寛文9年(1669年)に伊達宗倫と伊達宗重との谷地騒動において、係争地を宗倫2:宗重1の割合で配分することで合意に至っていたものを、検分役を務めた目付らが宗倫4:宗重1の割合に変更したため、寛文10年(1670年)、宗重は目付の不正とその背後にいる宗勝・宗輔らの所業を幕府に告発した。この時、朝意は古内義如・片倉景長茂庭姓元と共に、現時点での上訴は不適当であるとして国目付の内藤正俊と牧野成喬に宛てて出した書状を一度差し止めている。
寛文11年1月25日(1671年)、朝意は騒動の審問のために、伊達宗重より早く幕府より江戸出府の命を受け、仙台より江戸に立つ。息子の宗意が同伴を願ったが、これを制した。朝意は未解決の奉行誓紙問題や宗勝の悪事も証言するつもりであり、この頃までには宗勝や原田を糾弾する意図を固めていた。また田村に、自身の老齢を理由に古内義如の江戸出府を要望している。
同年3月7日に原田とともに老中板倉重矩邸に呼ばれ、土屋数直列座の下で1度目の審問が行われ、最初に朝意が審問を受けた。この審問で、藩主の伊達綱基(後に改名して綱村)への処分がないことが確定した旨の書状を、朝意は隠居の綱宗の附家老や田村家家老に送っている。同年3月27日に当初予定の板倉邸から大老酒井忠清邸に場所を変更し、酒井忠清をはじめ老中全員と幕府大目付も列座する中で、2度目の審問が行われる。審問は1人ずつ行われ、朝意は2番目に審問が行われた。この2度目の審問中に、別室に居た原田宗輔が宗重を斬ったのを見た朝意が、蜂屋可広と共に原田を斬ったとされている。しかし、この直後に飛び込んできた酒井家の家臣が混乱の中で誰彼かまわず斬りつけたため、蜂屋と朝意は致命傷を負う。朝意は駆けつけた仙台藩医・福井玄孝や家来らに急いで自分を宇和島藩邸に搬出するように促すも、間に合わずに息を引き取った。享年63。
故人の意思を重んじて、表向きは同日夜に蜂屋と共に宇和島藩邸で死亡したことにされた。翌日、荏原郡桐ヶ谷村の霊源寺で荼毘に付され、4月13日に遺骨が米谷へと到着し、菩提寺の大光寺に埋葬された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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